ひぐらしのなく頃に 業:第19話の感想→梨花の行動が愚かすぎて評価に困る

2021-02-14 11:11:11 | ひぐらし

ひぐらし第19話の感想発表はーじまるーよー・・・とか言いつつ、今回の話はどうも質が低い印象があって萎えるんじゃあ。まあその理由は最後に述べますよと。なお、第18話の感想はこちらで、世界構造の考察は「世界構造と勝利条件について考えてみる」、鬼騙し編から猫騙し編の展開推理は「郷壊し編に先立ちこれまでの展開を推理してみる」で書いている。

〇「カレンダーをめくる」楽しさ

血まみれの手で必死にカレンダーをめくっていた旧EDを思い出す。つまり、ここから楽しさが反転していくことが暗示。

〇梨花の「夢」→沙都子にも共有してほしい

なるほどそーきたかー。梨花だけが雛見沢を離れたんやと思ってたけどな。こうなると、新ED歌詞の「幼き動機の共鳴」は梨花ー沙都子ラインが濃厚だな。うーん、しかし何で沙都子と一緒の学校に行こうとするんだろうか?まるで理由がわからんぜよ。

〇入江氏、梨花と沙都子二人分の学費を出す

入江はアホな発言の多いおちゃらけた人物として描かれがちだが、雛見沢症候群の治療に関わるようになった経緯からも、心ある人なのは間違いない。その彼が血縁関係があるわけでもない二人を多額の費用を出して支援したのは、おそらく雛見沢症候群の研究であったり、様々な惨劇に巻き込んだりした贖罪の意味があるのではないかと思われる。

・・・と一応まじめに書いてみた。

〇梨花と受験勉強をする沙都子

何だかんだ言ってお互いを労りながら努力している光景。ここからカタストロフに到ることを考えると、やはり「悪意なきすれ違い」が「昭和58年」と繰り返される惨劇の原因なのか・・・旧ひぐらしは「誰かを絶対悪として責めれば解決するような単純な問題ではない」という描き方だったが(昨今の話で言えば、東京五輪会長の発言が一人の資質の問題で片づけられることではない、というのと同じだ)、これは「ひぐらし 業」でも継承されているようだ。

〇てゆうか、閉鎖空間からの・・・閉鎖空間を選択!??

雛見沢を出たいのに、何で「監獄」→「監獄」という選択をしちゃったかなあ・・・(詩音の場合は半ば牢に押し込めるのと同じなので状況がまるで違う)。

申し訳ないが、これは「昭和58年」の舞台を作り出す要因が成立するためにあつらえた環境設定という印象が強く、キャラクターの行動としてはあまりにも馬鹿げている(必然性に欠ける)と思わざるを得ない。梨花としては雛見沢に縛られた生活というのが嫌で遠方の学校を受験したわけだから、ストレートに考えれば、しがらみの少ない空間で過ごしたいと思うのではないか?

つまり、自由闊達な校風の進学先を選ぶ方が必然性があるわけで、今回の梨花のチョイスは、「自由な雰囲気がよい」と望みながら東京の私立で言えば(男子校だけど)〇布や〇蔵ではなく〇鴨を選ぶようなもので、全く意味不明と言わざるをえない。

しかも、百歩譲って自分だけの目標ならそれはそれで「自己責任」で話が済むところを、人も巻き込んだとあってはさすがに批判すべきポイントとして取り上げないわけにはいかないだろう(メタ的な言い方をすると、梨花のムーブがアホすぎて視聴者が真剣に考える気が失せるような物語設定は製作者側としてどうなのよ、ということだ)。

ここで沙都子を雛見沢の環境から引き離すためにやったのでは?などと考える人がいるかもしれないが、その解釈は成立しないように思える。というのも、わざわざ沙都子の「症候群完治」と御三家揃い踏みの「ダム戦争による遺恨の終結」宣言までされているわけで、沙都子が雛見沢に留まることによるリスクは前より明らかに減ったと推測できるからだ(少なくとも、そう予測できるような要素しか描いていない)。

要するに、(a)梨花が聖ルチーア学園を選ぶ理由がよくわからない、(b)そこに沙都子を巻き込む理由はもっとよくわからない、という結論にならざるをえないのである(まあこういう納得しがたい話は、鬼隠し編で症候群を発症した圭一へのレナと魅音の不用意な行動[しかもそれを主人公≒作品が肯定的に語る]にも見られるため、今に始まったことではないだけれども)。

一応フォローしておくなら、「聖ルチーア学園」というワードがひぐらしの視聴者にとってヒント(暗示)となる唯一の学校名であるから、それを梨花の将来として設定したという事情はあると思われるが、今述べた事情からすれば登場人物の行動から必然性を奪う悪手であり、申し訳ないがちょっとアホすぎて大丈夫かとさえ思ってしまった次第である。

〇沙都子激おこ

まあ入学するのがゴールになってちゃ勉強する気も起きんわな。モチベーションの源泉=梨花は他の友達とよろしくやっている上に、自分自身は学校のことを好きになれてないわけだし。

なるほど最終的に聖ルチーア学園の受験と入学を決めたのは沙都子自身だし、入ったらゴールなんてのはとんでもない勘違いだとは言えるが、それにしても入学後の梨花のムーブがアホすぎてちょっと反応に困るところだ。

もちろん、「梨花にも責められるべきところがある」としないと、最終的には沙都子が暴走したのは沙都子のエゴみたいな話、つまり「沙都子=悪人」という単純な構図になってしまうのは理解できるのだが、梨花の行動にある程度の必然性や合理性がないと、ただ呆れるしかないって話なんだよなあ。

なるほど描き方として、「奮起する梨花を見て沙都子も触発されて同じ学園に入った」といった状況ならば、そもそも梨花は沙都子の保護者ではないんだし、今回のような梨花の「沙都子をケアする意識が低いこと」も一応理解はできるのだけど、自分で誘っといてこれじゃあさすがにちょっとフォローできませんわ・・・なんたって沙都子は症候群のキャリアだったこともあるわけだぜ?それこそその苦しみを間近で見てきた親友なら、たとい医者が完治を宣言したとしても、一般の人よりは気にするぐらいのことをして然るべきだと思うんだが。

なんか梨花ちゃま祭囃し編の頃より退化すらしてないかい??

〇EDは今回も画像なし

これは「これから解答が提示されるのだし、ヒントをこれ以上出すつもりはない」て意思表示かな?

とまあこんな感じでございますよと。で、繰り返しにはなるが、今回の話が梨花を追い込むための幻覚とかじゃなくて実際に起こった事ならば(普通に考えてその可能性が高いと思うが)、ちょっと梨花の行動が頭悪すぎていささか擁護しがたい。

一応書いておけば、「ひぐらしのなく頃に」という作品は、旧アニメ版も含めて「完全悪」みたいなものを描くことは極めて少なく、その人なりにそう行動するに到った背景がある、という描き方をする場合が多い(その典型は鷹野だろう。ちなみに少し前、こういった作品の例として『鬼滅の刃』を紹介している)。ゆえに、沙都子が深く関わっているであろう偽りの昭和58年の生成と繰り返される梨花殺しもまた、沙都子のエゴイズムの産物というよりはむしろ、ある程度理解できる(しょうがない・必然性のある)ものとして描くつもりでいるのだろう。

しかし、今回の梨花は行動の指針も現実の行動もあまりにお粗末すぎて、そらまあ沙都子もブチ切れますわって話である。

そう書きつつ今回は筆を置きたい。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2022-04-15 21:37:34
梨花は運命から逃れるためにもがいてただけなんだよね
外から見たら意味不明と思うのは当然だけど
梨花は物語には書かれてないけど、他にも不審死たくさん見聞きしててトラウマになってる
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Unknown (ムッカー)
2022-04-24 20:25:53
コメントありがとうございます。

同意できる部分とできない部分がそれぞれ、という感じでしょうかね。

まず、同意できる部分です。古手梨花が我々の想像もつかないような過酷な体験を様々してきたであろう、というのはその通りでしょう。少なくとも現代日本で普通に生きていれば、あのような残酷な殺され方は、身近に経験することはもちろん、想像するのも困難でしょう(だからインパクトのある作品として話題を呼んだわけですが)。これは鷹野の研究への執着などにも通じるところがありますね。とするなら、梨花が我々にとって一種不合理に見える行動をすることは原理的にありえます。

次に同意できない部分です。では、そのような経験をしてきたという理由で、梨花が「きんとした説明もなしに」我々の理解不能な行動をとることもまた許容できるのでしょうか?私はそうは思いません。

ここでは、議論を明晰にするために、「梨花にとってありえるか否か」ではなく、「クオリティの高い描写・展開とは言えない」という表現を用いることにしましょう。

具体的に説明します。
先に私は、鷹野にとっての研究への執着も余人の理解の及ばないものである、と書きました。しかしながら、祭囃し編において、彼女の悲惨な境遇が高野博士への愛着を生み出し、ゆえに彼の無念を自分が晴らすという強い決意と行動力に繋がったことが、比較的丁寧に描写されています。

では、これを見た我々が、仮にひぐらし業で鷹野が「何の説明もなしに」その執着を捨てる展開を見せられたら、果たしてどれだけの人間が納得するでしょうか?おそらく、推理としては「鷹野が違う経験をしてきた世界線=我々が知る世界とは文脈が違う」とみなすでしょうし(他にも同じようなキャラがいる?そもそも何で初期設定が違う?)、もしかつてのひぐらしと同じ文脈を経て鷹野が行動しているとわかったら、「意味不明」・「ご都合主義」と批判するのではないでしょうか?ゆえに、ご存知の通りひぐらし業の世界は前世の記憶を元に輪廻を繰り返すような舞台であることが示され、あまりにも生々しい破滅の記憶の積み重ねが、彼女をして養父の研究の正しさを諦めさせた、というわけです。

これと対比していただければわかる通り、梨花がこの話で取る行動は、あまりに説明不足と言わざるをえません。雛見沢から出たいのは理解できるとして、なぜ沙都子と一緒でなければならないのか(彼女の症状は収まっているのに)?なぜ他の部活キャラには同様な執着心を持たなかったのか?それほど沙都子を大事に思うなら、なぜ他の高校を受けるという選択肢はなかったのか(これは後知恵になりますが、最初ならともかく、ひぐらし卒では何度も沙都子が受験を諦めさせようとしたことが語られています)?などなど・・・どれも全くと言っていいほど語られていません。これでは、「意味不明」という評価にならざるをえないと思うのですがいかがでしょうか。

なお、私がこの梨花の動機づけにこだわるのは、ひぐらし業およびひぐらし卒が、悲しいすれ違いが積み重なった(誰にでも起こりうる)痛ましい惨劇になるか、それともくだらない痴話喧嘩に周囲を巻き込んだだけのはた迷惑な三文芝居になるかを決める重要な要素の1つだと考えるからです。

この文章を書いた時点で私はもちろん以降の展開を知らないので、その後変化する可能性を考慮してややネタにしながら梨花の行動を「意味不明」と批判的に書いたわけですが、ひぐらし卒も全て終わった今、改めてこの部分の説明不足(正しくは練り込み不足)がこの作品を傑作にし損ねた、躓きの始まりだったと思うわけです。

おそらくひぐらしに関する記事は今後しばらく書く機会がないと思うので、長文ながら説明させていただきました。

以上です。
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