共感が幻想であること、これを私は繰り返し述べてきた。なぜそう言えるのかは
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(sympathyの訳語)他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。「―を覚える」「―を呼ぶ」⇒感情移入 (強調部分は筆者)
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という広辞苑における「共感」の意味を紹介しつつ、
①相手がその人の感覚を100%正確に理解しつつ
②その内容を100%正確に説明をしてくれ、
③続いてこちらが相手の感覚を100%正確に把握し、
④100%正確に理解されている自らの感覚と照合して
⑤全く同じだと定義する。その上、
⑥両者が全く同じ経験則をもっており、
⑦その結果全く同じ感じ方をする二人でなくてはならない
と説明した通りである。まずはこれによって、何気なく使っている「共感」という現象が、自明どころかいかに困難であるかを理解してもらえたと思う。
とはいえ……これをもってしても納得しない読者、もしくは納得しきれない読者が少なからずいるだろうと私は想像している。例えば、試合を直に見て最初は戸惑っていたのが、スタジアムで試合を観戦するうちに周りの雰囲気に影響されて熱狂的な応援を始めたり、あるいは凍えている人の身体に触れ、その感覚をわが事のように感じたりすることもあるのではないか?また前回は双子の例を出したが、長年生活を共にした者同士であれば、相手と全く同じとは言えないまでも、かなり似通った感じ方をすることもあるのではないか?等々…このような疑問が出てくるだろう。
あるいは、数値で仮に全く同じ痛みだと証明されたとしても、感じ方は(経験則の違いにより)同じではないというのは前回述べた通りだが、そういう科学的な説明は理解できても、自らの経験などから納得しきれない部分もあるだろうし、すでに書いたような共感という言葉の曖昧さでもって、私が常に100%の感覚共有を念頭に(つまりあくまで辞書的な意味のレベルで)論じていること自体に疑問を感じるかもしれない。また人によっては、あらゆる感覚がしょせんは定義であって、共感=幻想というのもその一環に過ぎないと考えているかもしれない(集団幻想etc...)。
しかし、共感=幻想という結論を「結局全ては幻想」という方向に収斂させるのは、ニヒリズムと思考停止を招くだけでなく共感の持つ危険性を隠蔽しさえする(それは私の意図するものではない)。それを避けるため、今一度共感という言葉に違和感を持ったきっかけを掘り起こしてみると、それは「君が望む永遠」というPCゲームのレビューを色々見ていてのことであった。実はこのきっかけと先に挙げたいくつかの例(長年共同生活をした人々の親和性の高さなど)の差異がそのまま共感の危険性を提示しているのだ。ではここで、両者がどのように異なるのか、そして性質の異なる二つに同じく共感の語を使うのがどのように問題なのか、という二点について読者自身に考えてもらいたい(なお、後者には「カラマーゾフの兄弟」や「ビギナー」なども属する)。その答えが出たとき、例えば心理学者たちの定義する「自然に共感できるのが正常」という見方が(現代日本において)どのような問題を引き起こすのかも自ずと明らかになるだろう。
(少し時間を置いて答えについては書く予定)
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(sympathyの訳語)他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。「―を覚える」「―を呼ぶ」⇒感情移入 (強調部分は筆者)
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という広辞苑における「共感」の意味を紹介しつつ、
①相手がその人の感覚を100%正確に理解しつつ
②その内容を100%正確に説明をしてくれ、
③続いてこちらが相手の感覚を100%正確に把握し、
④100%正確に理解されている自らの感覚と照合して
⑤全く同じだと定義する。その上、
⑥両者が全く同じ経験則をもっており、
⑦その結果全く同じ感じ方をする二人でなくてはならない
と説明した通りである。まずはこれによって、何気なく使っている「共感」という現象が、自明どころかいかに困難であるかを理解してもらえたと思う。
とはいえ……これをもってしても納得しない読者、もしくは納得しきれない読者が少なからずいるだろうと私は想像している。例えば、試合を直に見て最初は戸惑っていたのが、スタジアムで試合を観戦するうちに周りの雰囲気に影響されて熱狂的な応援を始めたり、あるいは凍えている人の身体に触れ、その感覚をわが事のように感じたりすることもあるのではないか?また前回は双子の例を出したが、長年生活を共にした者同士であれば、相手と全く同じとは言えないまでも、かなり似通った感じ方をすることもあるのではないか?等々…このような疑問が出てくるだろう。
あるいは、数値で仮に全く同じ痛みだと証明されたとしても、感じ方は(経験則の違いにより)同じではないというのは前回述べた通りだが、そういう科学的な説明は理解できても、自らの経験などから納得しきれない部分もあるだろうし、すでに書いたような共感という言葉の曖昧さでもって、私が常に100%の感覚共有を念頭に(つまりあくまで辞書的な意味のレベルで)論じていること自体に疑問を感じるかもしれない。また人によっては、あらゆる感覚がしょせんは定義であって、共感=幻想というのもその一環に過ぎないと考えているかもしれない(集団幻想etc...)。
しかし、共感=幻想という結論を「結局全ては幻想」という方向に収斂させるのは、ニヒリズムと思考停止を招くだけでなく共感の持つ危険性を隠蔽しさえする(それは私の意図するものではない)。それを避けるため、今一度共感という言葉に違和感を持ったきっかけを掘り起こしてみると、それは「君が望む永遠」というPCゲームのレビューを色々見ていてのことであった。実はこのきっかけと先に挙げたいくつかの例(長年共同生活をした人々の親和性の高さなど)の差異がそのまま共感の危険性を提示しているのだ。ではここで、両者がどのように異なるのか、そして性質の異なる二つに同じく共感の語を使うのがどのように問題なのか、という二点について読者自身に考えてもらいたい(なお、後者には「カラマーゾフの兄弟」や「ビギナー」なども属する)。その答えが出たとき、例えば心理学者たちの定義する「自然に共感できるのが正常」という見方が(現代日本において)どのような問題を引き起こすのかも自ずと明らかになるだろう。
(少し時間を置いて答えについては書く予定)
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