なぜ「精神論」・「精神主義」が問題なのか?:あるいは他者をコントロール可能な存在と妄想すること

2022-01-25 11:45:00 | 生活

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心の持ち様が人に少なからず影響を与えることは事実である。しかしながら、「何事も心の持ち様である」と考えたり、あまつさえ「心頭滅却すれば云々」のような発想をするのは、価値転倒も甚だしい愚昧な態度と言わざるをえない。

 


このように書くと、理性や合理主義といったものの重要性を説きたいのだと思われるかもしれないが、そうではない。今述べたような精神論・精神主義を私が強く批判する理由は、それが他者(それが人間・国家・自然であれ何であれ)を自分の心の持ち方でいかようにも変えられる存在、すなわち「他者もまた自分のコントロール可能なものであるはずに違いない」という矯漫さに基づいているからに他ならない。

 


その最たるものは自然だ。もし仮に「心頭滅却すれば火もまた涼しい」とか「(できると思えば)人間の可能性は無限大」などと言うのなら、冬の八甲田山に夏の装備で分け入ってみるがいい。過酷な自然を前に、それを克服するどころか、己の矮小さとそれを認識できなかった己の傲慢さと無知を痛感しながら、すぐに命を落とすことになるだろう。

 


人間の「想い」など通用しない自然を前にすれば、そのコントロール不可能性を意識せざるをえず、精神主義や精神論を土台とする世界観(他者認識)は、つまるところ他者への畏れを欠いた手前勝手な妄想に過ぎないと気付くのではないだろうか(冒頭に挙げた災害で言えば、止められない災害に対し最早祈るしかない、と言うのなら理解できるが、「祈れば止まる」などと考えるのは愚の骨頂である。なお、これは宗教に否定的な科学的思考と思われるかもしれないが、必ずしもそうとは言えないだろう。たとえば、以前「ゆかいな仏教」を紹介し、「世界はままならないものだ」と悟ることの重要性について述べたことがある。私は仏教徒ではないが、前述のような世界認識は共有する。だから、「誰かを心から愛するということ」と、「その人が他の人間と全く同じように死ぬ(他者と何ら変わらない)存在に過ぎない」のは同時に真だ、と言うのである)。

 


冒頭で述べたような精神論・精神主義の対象は、前にも述べたように自然のみならず人間や国家も含む(片山杜秀の「未完のファシズム」は、それに基づいた国家主義がどのように惹起したかを描き出している)。そして改めて精神論・精神主義を「他者が自分の心の持ち様でいかようにもコントロール可能な存在だとみなすこと」だとするなら、人間単位のそれは同調圧力や「共感」の幻想になるし、国家単位ならナイーブな外交政策や機能的有効性を欠いたお題目的スローガンとして立ち現れてくることだろう。

 


以上。


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