トランプ政権が登場して以来、「ポピュリズム」という言葉が一時席巻した。歴史的には1892年にアメリカで結党された通称「ポピュリスト党」から広まった言葉とされる。選挙のたびにそのポピュリズムの幻影を見てしまうので、筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』中公新書(2018.1.)、を衝動的に買ってきて読み終える。
ポピュリズムとは、政治を理性的にとらえるよりは情緒・感情で態度を決める大衆を基盤とした運動という。その大衆の一面的感覚に迎合し、それにより大衆を操作して権力を維持する手法であり、少数派を排除する。この傾向がEU離脱だったりする。
日本の選挙結果を見ると、ある意味ではバランス感覚があるやにみえるが、同時に目先のメディア世論に操作されがちな面を感じ入る。小池百合子・橋本徹・小泉純一郎の顔もちらちらする。作者によれば、戦前のポピュリズムは、1905年の日比谷焼き討ち事件に始まり、それが戦時体制を経て戦争に突入する道を邁進してしまう。
政党政治が成熟する前の党利党略の軋みへの嫌悪感は、天皇・軍部への期待に流れ、それをマスメディアが率先して鼓舞していったのが特徴という。政党政治の崩壊は大政翼賛会へと収斂してしまった。「支持政党なし」「無党派」が現在多いのはそんな政党政治の未熟さが輪をかけてもいる。
作者は、こうしたポピュリズムの轍を踏まないためには、マスメディアの知的向上や多元的な政党政治の創出を提言している。しかしそこはもう一歩踏み込まないと納得がいかない。
現在、行政文書の改竄問題で揺れているが、それは傲慢な態度と言葉をまき散らしてきた麻生大臣を前々から許してしまった大衆の結果責任だと思えてならない。超エリート組織の財務省の綻びは哲学なき弥縫策にある。それは日本の既成組織全体を巣くう癌細胞でもある。何のために仕事をしているのか、何のために生きているのか、誰のために生きているのかという原点に行き着くのだね、きっと。