ときおり、伊集院静の本が読みたくなる。以前読んだ『いねむり先生』にみなぎる人への優しさ、共感力に圧倒されたことを思いだす。「生きることのすぐ隣に平然と哀切、慟哭が居座っている」と、人生を看破している作者の洞察力。それは、実弟や前妻・夏目雅子の死の「無念をにぎりしめて生き」てきた作者の咆哮がある。 どういうわけか、エッセイ風の『いろいろあった人へ』(講談社、2018.3)を入手し、読み終える。きっと、わが茶畑を管理していた有能な青年の事故死があったからなのかもしれない。

「人の出逢いは、逢えば必ず別離を迎える。それが私たちの<生>である。生きていることがどんなに素晴らしいことかを、さよならが教えてくれることがある。」
伊集院静が女性に人気があるのも、短い端的な言葉で相手の琴線を叩くからだろう。わかりやすい言葉のその魔術は生きるギリギリを慟哭してきた者のみが使える技術なのだ。

知人の女性は、伊集院静の著作の殆んどを読んだという。中山間地のなかで伊集院静のファンがいたのに刮目する。他人に対する想像力を「回線」する地元の人に会うことは残念ながら少ないのが現実だ。
「人は何かを失って、何かを手にする」、そういう「さよならのチカラ」をバネにするには、状況を受けとめる感性と覚悟を日々の暮らしの繰り返しの中に貫いていくことから獲得するように思う。

「人の出逢いは、逢えば必ず別離を迎える。それが私たちの<生>である。生きていることがどんなに素晴らしいことかを、さよならが教えてくれることがある。」
伊集院静が女性に人気があるのも、短い端的な言葉で相手の琴線を叩くからだろう。わかりやすい言葉のその魔術は生きるギリギリを慟哭してきた者のみが使える技術なのだ。

知人の女性は、伊集院静の著作の殆んどを読んだという。中山間地のなかで伊集院静のファンがいたのに刮目する。他人に対する想像力を「回線」する地元の人に会うことは残念ながら少ないのが現実だ。
「人は何かを失って、何かを手にする」、そういう「さよならのチカラ」をバネにするには、状況を受けとめる感性と覚悟を日々の暮らしの繰り返しの中に貫いていくことから獲得するように思う。