たまたま、半世紀前に発刊された守田志郎『農業は農業である』(農文協、1971.4)を読み終えた。当たり前のような表題に軽くのぞいたわけだが、読み進めるうちにこれは深い内容であるのがわかった。黄ばんだ年代物の本ではありながら歯ごたえがある。要するに、大都市は農村の犠牲の上に形成されていること、農業と工業とは成り立ちが違うものであって、農業の工業化はあり得ないものであることなどを、飄々と説いているものだった。
「土を軸とする農業の論理」が、つまりその主人公である農民が農薬・機械・ビニールなどの渦のなかに漬かってしまい、何かを失おうとしているのではないか、という警告の本だった。さらに、「農民のみならず私たちの大部分が、ある催眠状態におかれている」と強調する。都市化が叫ばれた50年前、すでにその呪文の危うさを敏感に受け取り、今日の農村と過疎化の惨状を予見していたわけだ。
農民も国民も考えることをはく奪されたマジックは、例えばと、巨大な情報氾濫を担う「電通PRセンター戦略十訓」を紹介している。
1)もっと使用させろ、2)捨てさせろ、3)ムダ使いさせろ、4)季節を忘れさせろ、5)贈り物にさせろ、6)コンビナートで使わせろ、7)キッカケを投じろ、8)流行遅れにさせろ、9)気安く買わせろ、10)混乱をつくりだせ」と。恐ろしい。
この十訓は、高度経済成長政策を誘導する強力なアイテムの一端となったばかりでない。今ではこの十訓を後方にしまっているようだが、基本的にその歯牙は今も続いている。
ひるがえってそんな中で、具体的に作者は、国や農協が推奨している「栽培の画一化をやめ、大小による規格化・選果などもやめ」ることも提案している。それは西洋の畑や市場を視察してきた作者の体験も大きい。
どんなに機械化・工業化が進んでも、「主人公は常に農作物であり、家畜である。…農業は農業なのだ。農業は工業ではないし、工業のようになることもできないし、工業に近いものになることもできないのだ。」ということをあえて宣言する。農業に生きるとはそういう自然の営みのなかに自らの人生を配置していくという意味がそこにはある。
読みやすい洒脱なエッセイではあるが、論理的というより直観的な感性がみずみずしくそして鋭利な刃物のような本志が飛び交う。本書は昭和の古典とも言われるほどの基本的な農業書でもあるらしい。自分は弱い人間だ、間違ったことを農民たちにも推進したこともある、などと吐露してはいるが、そういう作者の人間的な魅力が絡まってくる。近年の野菜工場やスマート農業の流れをどう見るか、お聞きしたいところだった。