これだけ暑いと冷たいドリンクをぐいぐい飲み続けてしまう。すると、小さい胃が悲鳴をあげる。食欲はあるものの、胃の満膨感やらむかつきやらで食が進まなくなる。そんなとき、夏以外は見向きもしないソーメンを流し込む。さらには、うどんや中華麺へとツルツル族の出番となる。
画像は、中華麺をベースにした畑で採れた野菜のキュウリ・生姜・トマトのツルツルメニュー。もちろん、完食となる。これで酷暑を乗り切るのだ。
これだけ暑いと冷たいドリンクをぐいぐい飲み続けてしまう。すると、小さい胃が悲鳴をあげる。食欲はあるものの、胃の満膨感やらむかつきやらで食が進まなくなる。そんなとき、夏以外は見向きもしないソーメンを流し込む。さらには、うどんや中華麺へとツルツル族の出番となる。
画像は、中華麺をベースにした畑で採れた野菜のキュウリ・生姜・トマトのツルツルメニュー。もちろん、完食となる。これで酷暑を乗り切るのだ。
以前、友人が宮崎県綾町のまちづくりを推進してきた郷田美紀子さんの講演を聞いてえらく感動していた。たまたま前町長の郷田実・娘の美紀子さんの著作『結いの心・増補版』(評言社、2005.1)と(ビジネス社、1998.12)の同じ2冊を間違って入手したが、読みごたえある内容だった。
「夜逃げの町」「人の住めない町」と言われてきた過疎の町・綾町を先駆的な町起こしのモデルになる町へと導いたのが元町長の郷田実だった。彼は北支から東南アジアを生死ギリギリで転戦してきた復員軍人だった。死を何度も覚悟したとき想い出したのが天皇ではなく故郷の山里だったという。その故郷にある原生林並みの照葉樹林が林野庁の赤字補填で伐採されようとしていた。
それを粘り強く反対ししつつ、農林大臣にも直訴し、ついに阻止に成功させるばかりでなく、「照葉樹林都市」を掲げ、木工や醸造などの産業を興すとともに世界一の歩道吊り橋も実現してしまった。さらには、「有機農業の町」を名乗り上げ、生ごみ・屎尿を資源とする農地還元システムを作り上げる。当時としては先駆的な施策でもあった。
それらの施策を支えるベースは、「行政に寄りかかる町民にしてはならない」として、失われた「自治の心」を取り戻し、「結いの心」全員参加の町づくりめざしていく。その鍵として「自治公民館運動」で町民の議論の場を重視していく。
これは、安倍くんが長期政権でも全くできなかった視点なのだ。経済成長で国を豊かにするという発想がこのコロナ禍で瓦解したのはいうまでもないが、それは国民自身が自分の住んでいる地域で自治の精神を発揮できるかどうかにかかっている。
この綾町の森を中心に世界自然遺産登録にしていこうという運動を進めているが、森の中にある鉄塔の存在が障害になっている。それでも、この過疎の町だった綾町に年間120万人も訪れる観光地にもなっている。それは、17兆円のGoToキャンペーンとは違う、地元が躍動する「本当の観光とは」を考えさせるものだ。
郷田元町長が残したものはすべて地域に生きる人間の在り方・行政の在り方の本質を問うている。こういう人が政治家になってもらいたいのだが、なかなかいない。会ったことも一度もない。それはモノが垂れ流されるだけの日本の貧困そのものだ。
和宮様は、春先から足の筋力が低下したり、肩が凝ったり、めまいがおきるなどがじわじわとひどくなり、最近は横になっていることがしばしばだった。数年前から、気圧によって起こる「気象病」のようなかったるさが季節の変わり目にあったが、最近は家事を這いつくばってやるような状態になってしまった。
(画像は日本整形外科学会webから)
そこで先月、整形外科病院へ受診したら、腰痛のヘルニアではなく首の頸椎(ケイツイ)によるヘルニアではないかという診断があり、すぐ大学病院を紹介してもらった。その結果、頸椎の間にある「椎間板」が脊髄の神経を圧迫しているのがわかった。
首のヘルニアの原因についてははっきり解明されてはいないが、加齢による骨の老化、カルシウム・マグネシウムの不足、悪い姿勢などが挙げられている。一般的には手のしびれや疼痛などがあげられるが、和宮様はそうした症状ではなく、筋力低下がはなはだしい。(上の画像はAllAbout健康・医療webから)
手術は来週に行うが、神経細やかな和宮様の精神状態が心配だ。「まな板の鯉ですので居直ってくださいませ」とか「気を紛らわして楽しい思い出とか好きな趣味のこととかをお考え下さいませ」と進言するが、「無理じゃ」と一蹴されてしまう。「ケセラセラでいきましょう」と言うのが精いっぱいだった。手術の成功を祈るしかない。
ここ数日、記録的な酷暑が続くのできつい屋外作業はやめ、ひたすら熱波を避け睡眠術でドローンする。その隙間の朝と夕方の涼しい時間だけ少しづつ裏山の下にある養生中の植木を整頓していく。まずは、石垣や通路に生えている雑草を除去し、イノシシの破壊工作(もう少しで石垣が破壊されるところだった)の後遺症を修繕する。もちろん、鉢のなかに侵入している雑草も除去してきたけれど。
木の種類は豊富ではなく、集落の国道法面に植えるアジサイ・レンギョウが多い。そこに、桜・ヤエクチナシなど挿し木で増やしている樹木が参画している。実生で育てたソシンロウバイやナンテンも芽を出してきたところだ。石垣のおかげで灼熱の熱波が直接襲わないのがいい。適度な日陰と湿気で夏の暑さと冬の寒さをしのいでいる。ここから畑の周りに樹木が派遣されているがなかなか活着するにはいろいろな障害がある。イノシシやシカの狼藉や食害にはほとほと手を焼いているし、そのうえ長雨や酷暑攻撃だ。植木も人間と同じく波瀾万丈の生きざまを続けている。
きょうは浜松市が日本一になった。といっても、最高気温が41.1度になったからだ。正確にいうと熊谷と並んでタイ記録となった。喜んでいいのやら。それほどの暑さが体力を奪う。しょうがないので昼寝をするがついつい熟睡してしまう。
さて、なんとかカボチャ第1号が大きくなってきた。ここ数年はイノシシ・タヌキ・カラスなどに食べられてしまうことが多くてなかなか口に入らなくなっていた。さっそく、ポリ袋で包んで目隠ししてみる。地上から1mほどの高さにあるので確認しやすい。もう一息で収穫だぞ。
カボチャだと思い込んでいた「トウガン」が雑草にまみれながら実をつけていた。よく見ると葉が違うのだが、人間の感覚は思い込むと思考停止となる。表面のケバケバが取れれば収穫だが、おそらく来月上旬くらいかかるかもしれない。茎をもち揚げると実が5・6個以上ついていた。そういえば、5年ほど前、100個以上収穫して困ったことがあったが、今回はそこそこの収穫になりそうだ。ただし、ここ数年は害獣被害があるので不安感がいつもある。隣の集落には猿が出没しているという。結果はどうあれ、結実は嬉しいものだ。人生もそうありたい。
初盆を迎える5人の「施餓鬼会」(セガキエ)が近くの河原で行われた。午前中に河原の草刈りと施餓鬼棚(精霊棚)組み立てが行われた。棚はコンパクトに組み立てられ、竹は近くの竹林から調達される。
ふつう「川施餓鬼」は、水難事故死の供養で行われるらしいが、ここでは新盆を迎える死者の供養のための追善となっている。また、施餓鬼の本来の趣旨は、餓鬼道に落ちて飢餓にならないよう食物を施すということらしいが、今ではその趣旨は死語となって「施餓鬼」という名前だけが残っているようだ。
午後6時ごろから、松明と供物を持った7~8人が登場し、棚の脇では松明が焚かれ、お寺の和尚の読経が始まる。目の前の川は水量が多いものの静かに下流に向かっている。きょうは市内で40.9度という記録的な気温だった。
ひとり一人がお線香をあげてから、また読経に入り、次にお米と水に浸した香花(しきみ)をそれぞれ3回持ち上げて拝礼し式は終了となる。遺族は正装で、他の人は平服や作業服で参加している。隣の集落との合同の供養ともなっている。
くり貫かれた太い竹には砂が入れられ、そこに線香やろうそくを立てるようになっている。当然、自前で手作りされた作品でもある。式の終了後、飾りやゴミは燃やされ、ビールを飲んで散会となる。むかしは、弁当もちでみんなで食べたり、お店が出るほどの盛況であったらしい。すべてがつつましい山里の「川施餓鬼」だった。仕事もお盆もせわしい日々にコロナ禍が襲っているが、たんたんといつもの穏やかな暮しがそこにあった。
和宮様が「庭に見慣れぬきれいな花が咲いておるが、知っておるか」というので、さっそく見に行く。そういえば、早春に買って来てそのまま植えたまますっかり忘れていたのだ。以前から注目していたアヤメ科の花だが、花が少なくなったころ合いに咲くのが戦略か。
華麗な花なので園芸植物かと警戒していたら、日本をはじめとする東アジア原産の自生種だった。朝咲いた花は夕方にはしぼんでしまうというもったいない時間経過。しかし、次々と花は咲いていくから心配ない。雑草軍団を率いる女王のように見える。それほどに、強烈な緋色と赤班のコラボの異彩を放つ。黒い種を「ぬばたま」というのだそうで、それができるのも楽しみだ。
ぱたりと止まったイノシシの猛攻は畑を荒野に戻してしまった。とりあえず、倒されて放置されていたピーマン・シシトウ・甘長トウガラシの苗を植え直す。再びの来襲に備えて、竹支柱の残骸でまわりを保守する。目くらましの術だが効果はわからない。
次に、新しい竹支柱で周りを囲みネットで保護する。この程度ではかんたんに突破されることはわかってはいるが、まずはの応急処理である。最近はシカも来るので上からの防御も必要になってくる。パプリカも実が着きはじめているが果たして色づくのだろうか心配ではある。まずは、生きている野菜の立て直しに力を注ぐことから始める。
イノシシ被害の戦後処理は今もって終わらない。イノシシが住める森づくりをしなければこの攻防は終わらない。被害だけが強調されるのはそれはそうだが、太平洋戦争の被害と同じで、日本は被害者ではない。加害者であったことを認めたくない風潮が今もって支配する。官も民も軍も一体となって戦争遂行をした責任はどこへ消えたのだろうか。責任を取りたくない軍部の体質は、戦後の今の政治・行政・国民・マスコミすべてに浸透している。つまり、責任の所在を考える思考を停止しお笑い芸人のチャンネルに脳髄を漬けこんでいるわけだ。
イノシシも「俺たちの森を返せ」と狼藉テロを働いているのに違いない。だからオイラは不満をいいながらも炎天下で粛々と戦後処理をしているってわけなのだ。森を市場化して森を破壊した林野庁はいまだに軌道修正できないでいる。CWニコルの森づくりの意味が日本の中枢に伝わらない。
畑の周りの木や竹を見てみるとそのてっぺんが白くなっているのがわかった。このところ勢力を伸ばしている「コボタンヅル」(キンポウゲ科)であるのがわかった。近くで見るとなかなか清楚な感じで、群生していることが多い。放置していると茎が木質化してまるでツル性の樹木のようにも見えるし、クズと並んで生命力あるしぶといツル植物だ。
白い4枚の十字型の花は、何を隠そう花ではなかった。花はもともとないのだ。それは変容したガクなのだが素人にはわかりづらい。似た仲間に「センニンソウ」があるが、こちらの葉には鋸歯がない。
近所の空家ではコボタンヅルが屋根を占拠し、そのうえの樹木へと侵出している。まるで屋根が花園のようにさえ見えてくる。廃屋と見なければ壮大なアートな活け花と見てもいい。ただし、キンポウゲ科の植物は有毒なのが多いので注意が必要だ。「そのうちにコボタンヅルとクズのツル植物が過疎地を占拠するのはまもない」とぐーたら当局はひとごとのようにつぶやいた。
アルプスのハイジに憧れた娘と日本の風土にあった酪農をめざした青年が結婚する。二人は理想を実現すべく岩手・田野畑村の起伏の多い急傾斜地を開拓し、外国産の飼料や薬品に依存しない日本産の「シバ」中心の酪農に挑戦する。その結晶がこの「山地(ヤマチ)酪農牛乳」だ。
厳しい東北の自然と急峻な放牧地で育った牛の牛乳は確かに旨みがあった。「山地酪農農法」の提唱者の楢原恭爾(ナラハラキョウジ)博士は、「山地酪農は新規異質の農業である」と孤立無援の覚悟を込めた研究結果を発表する。急傾斜地を日本産のシバの草地にする。そこに乳牛を放牧し「牛乳」という価値高い食料を生産する。それは誰も取り組んでいなかった異次元の農業だった。
それを都会育ちの若い二人は、砂をかむような悪戦苦闘を1973年(昭和48年)創業して以来、子どもらも担い手となってやっと実現していく。若い二人の黒髪は今では真っ白になってしまった。いまだ試行錯誤でなんとか安定してまもない農法だが、従来の酪農概念を変える取り組みだ。楢原博士が「農業であれ、酪農であれ、それが人間の真の豊かさへ向かっていなければならない」という提起が根底にある。
海風の「やませ」によるミネラルたっぷりの野草は牛の糞尿からも栄養を貰う。餌はこの野草だけなのでミルクの生産量は普通の三分の一しかできない。「すべては人と乳牛の健康のため」というこだわりは、牛乳だけでなくチーズでも2019年のJAPAN大会のグランプリを獲得する。さっそくオイラも牛乳とヨーグルトを通販で送ってもらう。「自然には足さない引かない」酪農を自負する、応援したい有意の人がその山地にいた。