私は貝になりたい
2008年/日本
リメークの意義
総合 60点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
マラソンのQちゃんが「努力をすれば夢は必ず叶う」と繰り返し公言していながら自らその発言をマラソンで結果を残せなかったために否定することになってしまったことがあるが、この作品の主人公を演じた中居君にも同様のことが言えると思う。彼の努力の‘痕跡’を見ることはできたのだが、‘結果’が見えなかった。いくら努力をしてもどうしてもカヴァーできない天性の素質というものはあると思う。
演出にも問題があると思う。例えば清水豊松がアメリカ軍に車で連れて行かれる途中で小便をしたいと申し出て、岬のそばで用を足すことになる。おそらく清水はその時飛び降り自殺を考えたはずであるが、その緊迫感が感じられなかった。あるいはラストシーンで死刑が執行される時に語られる清水のモノローグはどうであろうか。あのように感情を込めて抑揚をつけて流暢に語ることと絶望した人間の死刑のシーンが合致していないと思う。
そもそもこの作品を2008年にリメークすることの意義とは何であるのか? この作品は事実を元にした話ではないので、清水豊松が何故戦犯として裁かれたのかという検証のための作品ではない。清水が殺したとされているアメリカ人の死体を検死すれば、清水の容疑が晴れたのにというような話ではないのであり、清水はただ不条理に死刑に処せられただけの話である。
『ジョニーは戦場へ行った』(ダルトン・トランボ監督 1971年)という映画がある。一応反戦映画ということになってはいるが、正確に言えばこの作品は医療事故についての映画である。同様に『私は貝になりたい』という‘反戦映画’が現代にリメークされる価値があるとするのならば、来年から施行される裁判員制度で私たち一般の日本人が罪に問われた人を正しく裁けるのか、あるいは罪に問われた時に正しく裁いてもらえるのかどうかという問題提起にあると思う。
容疑者Xの献身
2008年/日本
不可能な完全犯罪
総合 70点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
勿論主人公の湯川学が冒頭に行なった実験は、わずかな力が大きな破壊力を持つこともあるという、その後に展開される石神哲哉の花岡靖子に対する‘愛情表現’の暗示になっていることは言うまでもないのではあるが、私がどうしても納得しがたいシーンは、何故石神は湯川を雪山の登山の時にそのまま遭難させなかったのかということである。本物の天才の石神であるのならば湯川は自分が仕組んだ‘完全犯罪’の障害になることは分かるはずである。勿論湯川が死んでしまっては謎解きをする人物がいなくなり物語自体が成り立たなくなることは分かるのだが、ホームレスまで殺した石神が湯川を生かしてしまうと石神の花岡に対する愛情が力強さを失ってしまうのである。湯川を殺さなかった理由として考えられることは、石神は人を愛することを知らなかっただけでなく人に愛されることも知らなかったため花岡靖子の行動を想定できなかったということであるが、石神の幼少などの境遇が全く描かれていないので説得力に欠けるのである。
ワールド・オブ・ライズ
2008年/アメリカ
ラストの女性
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
いくら衰えたとはいってもやはり巨匠であることには変わりはないリドリー・スコット監督の作品であるのだから私はいつも以上に自身に緊張を強いて1カットも見逃さないようにして鑑賞した。
その結果、やはりどんでん返しがあったのである。主人公のロジャー・フェリスは嘘のつきまくりで情報戦を戦い続けるのであるが、結局一番誠実であったハニ・サラームのたった一度の大きな嘘に事実上敗北してしまうというオチだけならば普通の監督でも描けるであろう。リドリー・スコット監督が並みの監督ではないところはこの後である。ロジャー・フェリスがヨルダンに定住することを決意した後に、ある女性の姿を遠くから眺めるシーンがある。私の見間違いでなければその女性は看護婦のアイシャではなく彼女の姉である。だから彼は彼女の息子たちが好きなスイーツを買って彼女の下手な料理が少しでも美味しくなるように野菜を選んで買っていたのである。つまりフェリスはアイシャから彼女の姉に‘乗り換えた’のであり、ラストで私たち観客はフェリス(リドリー・スコット監督)に嘘をつかれたのである。原題「Body Of Lies(=嘘の塊)」という意味はこの作品そのものを表していると思う。
地球が静止する日
2008年/アメリカ
家族の再生
総合 50点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
喩えが古くて申し訳ないのだが、高倉健やブルース・リーの映画などを観た後にすっかり主人公に感化されてその気になってしまうという経験をすることがたまにあるが、私はこの作品を観終わった時に‘静止’してしまった。
結局主人公のクラトゥは何をしに地球に来たのだろうか? 彼は警告に来たという設定らしいのだが、正確に言えば人類を滅亡させて地球を救うという決定を知らせに来ただけのはずである。そのように決定した理由はそれまでの綿密なリサーチの結果、人類に更生の余地がないということがはっきりしたからなのであり、急に決定を変えることはありえない。
この作品の本当の意図は環境の問題ではなくて、家族の問題なのだと思う。クラトゥは最初にヘレンと2人で逃げる。次にクラトゥはヘレンの息子ジェイコブと2人で逃げる。そして最後に3人で逃げることになる。ヘレンと血のつながりのないジェイコブを体をはって守ろうとするヘレンを見で感動したクラトゥは、今度は自分が血のつながりのない彼らを命がけで守ることで生命の基本となる‘家族’を築こうとしたのであり、そこに人類の可能性を見出したと解釈することはできる。しかしそれはクラトゥの生い立ちなどが描かれていない以上、暗示の域に留まったままであり、分かりづらいことに変わりはない。明らかに演出は失敗している。
「ヒトラー」君、誕生ケーキの注文拒否される 米国(朝日新聞) - goo ニュース
先日、日本でもテレビ東京の番組内でのアイドルによる“ヒトラー賛美”で批判が
あったばかりだが、上には上がいるもので我が息子にそのまま「アドルフ・ヒトラー」
とつけてしまう親がいることに驚かされる。どのように考えてもその息子にメリットは
ないはずだが何故誰もそのような命名を止めさせなかったのだろうか? 言論の
自由ではあるのだが苦労するのは命名する父親ではなく命名された息子の方で
あるのだから、これはある種の虐待にあたるのではないのだろうか? 「ただの
名前に過ぎない」と父親は抗議しているようだが、ただの名前に過ぎないのならば
わざわざ“アドルフ・ヒトラー”と命名する必要もないはずである。“アドルフ・ヒトラー”
と命名した以上、社会に対する挑戦と解されても文句はいえない。