ばかのハコ船
2002年/日本
ゲームの再開
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
(『狂い咲きサンダーロード』のレビューからの続き)‘ゲームの規則’という観点からここまでレビューしてきたのだが、ここにきて困ったことになった。『ばかのハコ船』には全くゲームが描かれていないからである。しかしよく考えてみれば『処刑の部屋』が制作された1956年は朝鮮戦争特需と言われた経済の高度成長期に入る頃で、『狂い咲きサンダーロード』が制作された1980年は‘バブル前夜’である。つまりゲームというものは元手があるからできるものであって、2002年という日本経済が停滞している中で撮られた『ばかのハコ船』の主人公である酒井大輔と島田久子は500万円の借金をして「あかじる」という健康飲料を造ったにもかかわらず東京では売れずに、親類縁者のコネを使って売るために酒井の田舎に帰ってくるという後がない苦境に陥っている。だからゲームらしきものと言えば2人が乗る、他人を必要としない一輪車なのである。
しかしとにかくゲームが存在しないので他の2作品の主人公たちのような元気が酒井大輔にはない。‘ゲームの規則’がなければ必然的に主人公の生き方は刹那的になってしまう。なにしろ酒井も島田も「あかじる」をどのようにして売ればいいのか全く何の工夫をすることもなく、結局全てをある家族に全てただであげてしまうのだから。
その帰り道、酒井と島田が、蓋が開いていたマンホールに落ちてしまった後のラストシーンが分かり難いのだが、2人にとって2つの選択が同時に描かれていたように見えた。1つは地元で新しい仕事を得て子どもを授かった2人が酒井の両親と一緒に仲良くピクニックをしているシーンで、もう1つは東京に住んでいる酒井の弟が銀行からお金を下ろして銀行から出てくると、これから銀行強盗をするために頭にパンティーストッキングを被っている酒井と島田に遭遇するシーンである。最後でようやく酒井と島田は‘ゲームの規則’を破ろうとするのであるが、2002年の作品は基本的に元気も先立つ物もないから、他の2作品においてはメインで描かれていた‘ゲームの規則’の逸脱を描こうとはしない。
以上がアレクサンダー・ツァールテン(Alexander Zahlten)氏が選んでアテネ・フランセ文化センターで6月18日と19日に上映された3作品である。3作品とも私には初見であり、映画に関する相変らずの自分の知識の貧困さにがっかりしてしまった。
「ケータイ小説」を読んだことがあるユーザー、初めて3割台に(インターネットコム) - goo ニュース
私は古い世代の人間のせいなのか“ケータイ小説”というものを読んだことがない。
それは携帯電話やパソコンで読んだ事がないというのみならず、書籍化されたもの
も含めて読んだことがない。しかし最近ではアマゾン・キンドルやiPadなどで既に
書籍化されているものを端末で読む逆転現象も起こっているために“ケータイ小説”
という概念も変わりつつある。紙媒体ではないためにかさばらないなどの便利さは
侮れないのではあるが、どうしても電子端末で読むものはあくまでも情報の収集と
いう感覚が抜け切れない。メモなど直に書き込めるなど紙媒体だからできることも
たくさんあるような気がする。どのようにして私たちが大量の情報を有益に処理する
ようになるのかが、今後の私たちに課された問題だと思う。