澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「革新幻想の戦後史」(竹内洋 著)雑感

2012年01月19日 17時52分55秒 | 

 昨日、東大の総長諮問会議が、5年後から「秋入学」を提案(中間報告)して、早速、TVなどで大きく採り上げられている。「大学紛争」から40年以上経った今でも、「東大」の座は揺るぐどころか、ますます強固になっているように見える。
 また、由紀さおりのアルバム「1969」が米国でヒットしたとかで、1969年が注目されている。この年は、全国の大学紛争が頂点に達し、東京大学、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止となり、東京外国語大学では、暴力学生の介入を排除するという名目で、何と各教科30分という変則入試が強行された。
 
 先日、「大学センター入試」にトラブルがあったとかで、受験生間での「不公平」が問題になっているが、この程度で不公平云々というのなら、1969年には途方もない不公平、不正義がまかり通ったことになる。

 さて、肝心の「革新幻想の戦後史」(中央公論社 2011年)について。著者・竹内洋は、1942年生まれの教育学者で、元京都大学教授。自らの体験に基づき、戦後日本の学界、論壇を回顧したのが、本書だ。
  
 第三章「進歩的教育学者たち」には、次のような興味深い記述がある。

教育学部は進歩的学者が多かった。ここでいう進歩的学者とは左翼~共産党あるいは社会党左派~の同伴者の謂(いい)である。二流の学問と言われる教育学は、時流にもうごかされやすい。教育学部出身のわたしはある教授から同情めいたことを言われたことがある。」

 ある教授とは衛藤瀋吉(東大教授、亜細亜大学学長 1923~2007)のことだった。2002年、松本で開かれたパネル・ディスカッションに出席した著者は、同じパネラーとして出席していた衛藤に次のように言われたという。

「教育学部教授と知って警戒したのだが、それにしても君のような人がよく教育学部で生き残れたね。」(
p129-130

 第四章「
福田恆存の論文と戯曲の波紋」では、こんな記述も見られる。

進歩的文化人の後裔は「キャスターやコメンテーターなる人種」だとして、かれらのコメントが「下流大衆世論」を再生産させる。

「福田恆存に倣って、進歩的文化人の現代版キャスター・コメンテーターを笑劇にしたらどうなるだろうか。「解ります。よーく解ります」のかわりに、深刻そうな表情と「(首相は、大臣は、社長は)なにを考えているのでしょうか。…つぎへいきます」という台詞を多発させることになるのであろうか。」(p.310)

 第七章「知識人界の変容」では、次のようなことも。

「…いま三木清ほかについて、在野知識人と言ったが、帝大教授という官学知識人に対しての用語で、かれらが大学に籍をおいていなかったということではない。小林秀雄は明治大学文学部文学科教授、三木清は法政大学文学部哲学科教授 羽仁五郎は日本大学文学部日本史学科教授、林達夫は東洋大学文学部文化学科教授、谷川徹三は法政大学文学部哲学科教授だったからである。かれらは生活の資のために私立大学に職を得ていたが、三木や羽仁のように、治安維持法違反容疑で逮捕され、退職に迫られた人もいる。当時は、大学といえば帝国大学であり、私立大学は、名前は大学でも、帝大との差は今日の東大と専門学校くらいの差があった。だから、三木清や小林秀雄は自らのアイデンティティは“(私立)大学教授”などではなく、“哲学者”や“文藝評論家”だった。」(p.412-413

  故・衛藤瀋吉氏のエピソードは、さもありなんという感じ。ちなみに、1969年の東大入試中止を文部省に進言した東大教授のひとりが、この衛藤だったそうだ。最近、そのことを何かで読んで、怒りがこみ上げてきた。

 「当時は、大学といえば帝国大学であり、私立大学は、名前は大学でも、帝大との差は今日の東大と専門学校くらいの差があった」とは、身も蓋もない話ではないか。
 大昔、わたしは、その三流私大に在籍していて、衛藤瀋吉氏の授業を受けたことがある。衛藤は著書の中でも「宮崎滔天は私大出ながら、漢文がよくできて…」というような書き方をする人だったから、東大教授の傍ら非常勤講師として私たちに教えていた内容は、とても東大生と一緒とは思えなかった。われわれを教えていた衛藤の内心は、おそらく小林秀雄や三木清と同じような気分であったに違いない。

 1960年代以降、大量生産された大学卒業生は、社会のエリートでも、知識人の卵でもなかった。正確に言えば、旧・帝国大学やその周辺の卒業生だけは、充実した教育内容、教育環境の中で「エリート」への道が開かれてはいたが、私大などは、名ばかりの「大学生」を大量に生産する「株式会社」のようなものだった。
 マスプロ生産された名ばかりの大学卒業生でも、いっぱしに「知識人」面をして「朝日新聞」や「世界」(岩波書店)を読んだ。一方、「朝日」や「岩波」に大層なご高説を書くのは、東大卒の知識人というのが、戦後社会の定番だったのだ。こうした相互の生産、消費の関係が、戦後民主主義と呼ばれるものを支えていた。だが、大学を出ても就職できない若者が大量に排出される現在、日本の大学社会もまた変容せざるを得ない。「朝日」や「岩波」など信じない若者が、ネトウヨに走るのも時代の流れというものだろう。

 本書は、同時代を体験した人にとっては、「デジャブ感いっぱい」「身も蓋もない話」という感想になるだろう。

革新幻想の戦後史
竹内 洋
中央公論新社