澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

屋根まで駆け上れ ニガウリのカーテン

2013年08月02日 14時28分19秒 | hobby
 最近は珍しくなくなったニガウリのグリーン・カーテン。5月初めに植えた苗が、生存競争の果てに、「四大強国」ほどになって、地面を覆い尽くした。こうなると、隣に植えられた花や植物は、ニガウリによって「実効支配」されてしまう…。
 他の植物を守るためにも、ニガウリの勢いを上に向かわせなければということで、こんな感じのグリーン・カーテンが完成。今月中旬には、先端が二階の屋根まで到達すると思われる。

 このグリーン・カーテン、確かに日よけにはいいのだが、防犯上はマイナスのような気がする。

 

中国研究の第一人者 竹内実氏死去

2013年08月02日 10時26分13秒 | 中国

 今朝、新聞を開いたら、竹内実氏の訃報が目に入った。享年九十。大往生だった。

 他の新聞の訃報にも目を通したが、現代中国研究、毛沢東研究の第一人者という点では「朝日」から「産経」まで一致している。これは文化大革命から開放改革を経て現在の中国に到るまでの時の流れを実体験している者にとっては、驚異的なことである。20、30歳代の人はご存じないだろうから記しておくと、現代中国研究という世界(というよりムラか…)は、「ひとつの中国」(中華人民共和国か中華民国か)を巡る踏み絵の場という感じで、部外者には一種異様な世界に見えた。

 特に文化大革命の評価を巡っては、これを評価するものと、否定するものとまっぷたつに分かれた。安藤彦太郎、新島淳良、菅沼正久等々の「日中友好人士」(中国側に立つ左翼学者)は、文革を「魂に触れる革命」だと誉めそやした。一方、中嶋嶺雄、衛藤瀋吉、石川忠雄などのリアリスト政治学者、柴田穂(産経新聞)は、真っ向からこれを批判した。

 このときの竹内実氏の立場は、微妙なように見えた。竹内氏自身は、中国文学者で「支那」の古典から近代中国文学まで造詣が深く、政治的な事象よりも中国人そのものを理解すべき対象として見据えていたように思えた。この時以来、竹内実氏は、現代史、政治史を含めた、総合的な「現代中国研究」を志向していく。それは左翼の薄っぺらい中国研究者では到底なしえない壮大さだった。最近、氏の回顧録を読んでいたら、新島淳良が「僕は貴方と対決する」と言って、氏をにらみつけたというエピソードを見つけた。新島淳良は、当時、早大政経学部教授(中国語)で、毛沢東を礼賛する新左翼の思想的リーダーとか言われ、文革を礼賛する大言壮語を書き散らしていた。その後大学紛争が収まると、新島は早大にいられなくなり、「ヤマギシ会」に入退会を繰り返し、哀れな末路を終えた。

 竹内実氏が書かれたこのエピソードは、左翼学者新島の学問的な力量は竹内氏に遠く及ばず、これを嫉妬した新島が陰に陽に妨害をしたと読みとれる。進歩的な左翼学者などというものは、大言壮語の割には、実は「小人」であり、嫉妬深い存在なのだと、今になればよく分かる。

 新島や安藤彦太郎のような左翼学者は、中国当局からお墨付きを得た資料以外は使わないという連中だった。(新島は、後にこれに関連するトラブルで中国当局から「破門」されるが…。)
だが、「毛沢東選集」を例にとれば、毛沢東の言説は「学問」でも「研究資料」でもなく、当面の政治闘争のための指針なので、状況に応じて次々と書き換えられてきた。左翼学者はこのことを知りつつも、中国当局がお墨付きを与えていない文書については、論評も引用も避けてきた。
 竹内実氏が手を付けたのが、この毛沢東選集の原典を明らかにする作業だった。中国・中国人に対する深い洞察力がなければ、到底なしえない作業だったといえる。この点について、訃報には次のように書かれている。

毛沢東の重要著作を集めた「毛沢東選集」の内容に疑問を持ち、初出時の雑誌やパンフレットなどの原文や選集に未収録の文章を丹念に調査。その成果をもとに70~80年代に編さんした「毛沢東集」全20巻は、以後の毛沢東研究に不可欠の書として国際的に高い評価を得た

 戦前の中国、そして戦後日本の中国認識の変遷を知る大学者が去っていった。誰も時の流れには抗えない…。

 

竹内実氏死去 京大名誉教授竹内実氏

 豊かな文学的感性と鋭い歴史認識を駆使した中国近現代史研究の第一人者で京都大名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)氏が7月30日、京都市内の病院で死去した。90歳。中国山東省出身。葬儀は近親者のみで行う。(8面に関連記事)
 幼少期を中国で過ごした後、19歳で東京に移り、二松学舎専門学校で漢文学を学んだ。京大文学部から東京大大学院に進み、東京都立大助教授として研究生活を送ったが、学園紛争の混乱を機に辞職。1973(昭和48)年に京大人文科学研究所助教授となり、教授を経て86年から1年間、所長を務めた。退官後は立命館大教授や北京市の日本学研究センター教授を歴任した。専門は現代中国論、中国文学。  (京都新聞)
 毛沢東の重要著作を集めた「毛沢東選集」の内容に疑問を持ち、初出時の雑誌やパンフレットなどの原文や選集に未収録の文章を丹念に調査。その成果をもとに70~80年代に編さんした「毛沢東集」全20巻は、以後の毛沢東研究に不可欠の書として国際的に高い評価を得た。文化大革命を批判的に考察した論文「毛沢東に訴う」(68年)も話題になった。
 魯迅(ろじん)の研究でも知られ、著書「周樹人の役人生活-五四と魯迅・その一側面」では文学と歴史の接点を独自に解析し、中国近代史研究の新境地を切りひらいた。2001~06年には日本人として初めて中国で個人全集「竹内実文集」10巻を刊行した。「毛沢東 その詩と人生」(共著)、「中国 歴史の旅」など著書多数。本紙夕刊「現代のことば」を79~88年に執筆した。(京都新聞)


中国研究者の竹内実さん死去 毛沢東論など記す


 毛沢東論などで知られる現代中国研究者で京都大学名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)さんが死去した。90歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、竹内さんが顧問を務めた「現代中国研究会」(代表=吉田富夫・佛教大名誉教授)がしのぶ会を開く。
 1923年、中国山東省生まれ。京都大学文学部卒、東京大大学院修了。東京都立大助教授だった70年、大学紛争に嫌気がさして辞職。73年から87年まで京大人文科学研究所で教授や研究所長などを務めた。同年から94年まで立命館大教授、その後も北京日本学研究センター教授、松阪大学教授などを歴任した。
 19歳までの中国生活で培った滑らかな北京語の能力が研究のベースとなり、現代中国文学の紹介に努めた。60年の安保闘争下に作家の野間宏氏らと訪中。日本の反安保闘争を評価する毛沢東との会見記「毛沢東主席との一時間半」を、感動的な筆遣いで発表した。65年には「毛沢東―その詩と人生」(武田泰淳との共著)を発表。いずれも話題になった。
 文化大革命には懐疑的で、68年の論文「毛沢東に訴う」では、近代中国の屈辱の歴史を終わらせた毛を評価しつつ荒廃を生んだ文革を批判した。毛の人間的魅力への共感は失わず、その後も「毛沢東の生涯」「毛沢東」などを著し、06年には編著「漢詩紀行辞典」を出し、注目された。
 晩年には中国が「中華世界」であることを強調して、安易な中国理解を戒めた。天安門事件でも学生擁護のムードが強かった日本の論調に対して、学生の自重を求めるなど距離を置く姿勢をとった。
 著書はほかに「魯迅(ろじん)遠景」「現代中国の思想」など。
     ◇
 《親交のあった吉田富夫・佛教大名誉教授(中国文学)の話》 中国の文学や歴史など個々の分野の専門家は多いが、竹内さんは現代中国を総体で捉えることができた万能選手のような研究者だった。研究の基礎には中国で生まれ育った体験や高い語学力があった。座談の名手で、私たちの思い込みを意表をつく発想でひっくり返した。亡くなられたことは寂しく、残念でならない。
                           (朝日新聞)