澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

佐村河内事件と「Jクラシック」

2014年02月07日 11時26分21秒 | 音楽・映画
 ブックオフで買った「わたしの嫌いなクラシック」(鈴木淳史著 洋泉社新書)を読んでいたら、ちょうど佐村河内事件が発覚した。鈴木淳史(音楽評論家)は、この本の中で、「Jクラシック」を論じている。「Jポップス」に対置していつのまにか付けられたこのジャンルは、①名前ばかりで、箸にも棒にもかからない下手な演奏、②「求道派」、③「土着派」に分けられるという。

 「求道派」の代表は、小沢征爾で、「クラシック音楽を西洋伝来のものとして捉え、本場の演奏に近づけるべく、日夜努力するタイプ」である。一方、「土着派」は、「こちとら日本人やで、本場と同じなんて無理やわ。せやかてわては日本なりのやり方をさせてもらいます」というタイプで、朝比奈隆がその代表だという。(同書より)

 このどちらを突き詰めて行くにしても、つまるところ、「私は日本人」という現実に突き当たる。これは、西欧列強に開国を迫られて、「近代化=欧米化」を成し遂げた我が国・日本人の宿命でもある。
 東日本大震災以降、「世界に誇れる日本・日本人」「こんなに素晴らしい日本」といったコンセプトのTV番組が大流行しているのも、不安な将来しか見えない現在の日本を無意識に反映しているのだろう。

 「世界に誇れる日本のラーメン」と騒いでみても、中国大陸やシンガポールの華人から「それはウチらが本家やで」と言われれば、何も反論できないように、日本文化と信じているモノの多くは、実は外来モノなのだ。
 クラシック音楽は、紛れもなく欧州文化の精華だ。これをどんなに突き詰めていっても、所詮、「日本一のラーメン」にしか辿り着かない。

 この鬱屈を解消するのにピッタリだったのが、「Jクラシック」。国内市場=内需だけで成り立ち、自画自賛・我田引水していればいいのだから、夜郎自大の満足にふけることもできた。
 「ヒロシマ」「平和」「市民の祈り」…こんなコンセプトの佐村河内・交響曲が20万枚も売れ、「現代のベートーベン」(NHKスペシャル)「ベルリン・フィルにも演奏させたい」(大友直人)、「稀に見る天才」(五木寛之)と騒いでいるうちは天下泰平だった。CDを買ったファンも「障害者=弱者の”心の叫び”を理解できる私はなんてイイ人」という自己満足に浸ることができた。




 だが、新垣隆氏の告白がすべてを変えた。「ヒロシマ」「平和」「祈り」も所詮は詐欺師の金儲けのためだと暴かれた。東日本大震災の復興を願うという「花は咲く」という歌も、こうなっては白々しく響いてくる。
 これって、戦後日本のあゆみ、「戦後の虚妄」を戯画にしたように私にはみえるのだが、どうだろうか?