澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「蒋介石の外交戦略と日中戦争」(家近亮子著)

2014年02月10日 11時33分50秒 | 
 「蒋介石の外交戦略と日中戦争」(家近亮子著 岩波書店 2012年)を読む。
 
 中国研究の世界では、戦後から改革開放期に至るまでもてはやされた毛沢東・中国共産党史の研究が衰退し、今や蒋介石の国民政府期(1931~1949)に関心対象が移っているという。この著作もその成果のひとつで、これまでの学界の大勢を占めてきた「中共史観」をうち破ろうと試みている。
 戦後の中国研究は、戦前の日本軍国主義を批判し、それに抵抗・勝利した「新中国」にシンパシーを寄せるという研究が主流だった。中国(中華人民共和国)政府の公式史料を使わずに、中華民国(台湾)で発行されていた専門誌「中共研究」を引用したというだけで、「反中国」だと非難され、学界を逐われた研究者も出現した。「親中国」か否か、すなわち毛沢東の中華人民共和国、蒋介石の中華民国のどちらを支持するのかが、「踏み絵」になったような時代が続いた。そんななかでも、故・石川忠雄氏(慶應塾長・中国政治史)門下のグループは、時流に流されず、冷徹な中国研究を進めた。そのひとりがこの著者である家近亮子氏だ。



 1938年、日本は第一次近衛文麿声明で蒋介石の国民政府を「対手とせず」とした。その後、日中戦争は泥沼の深みに陥っていく。このとき、蒋介石が外交、内政問題をどう見ていたか、本書には興味深い史実が数々示されている。特に際だつのが、蒋介石の歴史眼の確かさ、構想力の大きさだ。蒋介石は欧州大戦の動向を見極めるとともに、日本の対米、対ソ関係を注視し、「以夷制夷」を目指した。民衆にどんなに犠牲者が出たとしても、あえてそれには目をつむり、「中華民族」の最終的な勝利を目指した。これは、いきあたりばったりで「大東亜共栄圏」を唱えた日本政府とは大違いだった。今日、中国が国連で常任理事国の椅子に座り、国連公用語の一つが中国語であり、中国政府が尖閣諸島の領有権を主張できるのも、蒋介石の言う「惨勝」の果てに中国が手にした果実に他ならない。

 蒋介石も毛沢東も「日本軍閥」と「日本人民」を峻別した。二人は最終的に中国が勝利することを確信していて、終戦後、「日本軍閥」を解体したとしても、「日本人民」の恨みは買わないようにと巧妙な戦略を巡らした。
 日本敗北後、権力の空白が生じた中国大陸では、国民党が中国を統一するかと思われたが、最終的に中共(中国共産党)が国民党を台湾に追い出して、大陸を統一した。「国民党の腐敗がひどく、国民に見放されたため」というのが従来の一般的な説明だったが、事実はソ連の強力な軍事援助によって、中共が国民党軍をうち破ったためだということが、本書で明らかにされている。
 
 蒋介石の妻である宋美齢、その甥の宋子文が、中国の立場を米国や欧州諸国にPRしたことも、欧米諸国に中国への同情を深めさせ、日本を「悪者」として描くことに大きな成果を挙げた。日本はこのようなロビー活動では、中国と比して圧倒的に劣勢だった。それは、現在までずっと続いている。

 本書によって、従来語られることの少なかった蒋介石の外交戦略、歴史観がよく伝わってくる。習近平の中共政権は「中華帝國」の再興を広言するが、これこそ蒋介石が思い描いてきた「中華」と同一なのだと思い至る。