澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「ドルチェ」~島尾ミホの独白

2015年07月11日 14時46分04秒 | 音楽・映画

 今週、聴講している授業の最終日、「ドルチェ 優しく」(アレクサンドル・ソクーロフ監督 1999年制作)を見た。
 作家・島尾敏雄の妻・島尾ミホが、それまでの人生を独白するというドキュメンタリー的な作品※。

 私自身は昔、島尾敏雄のエッセイを一冊だけ読んだことがあった。「ヤポネシア」という視点で、日本列島の周縁(奄美諸島)から見た「日本」について書かれていた。そのときは、島尾敏雄の壮絶な戦争体験、ミホとの恋愛、波乱万丈の家庭生活など、全く知る由もなかった。
 
 授業でこの映画を見て、私はひどく衝撃を受けた。この映画には、島尾敏雄・ミホ夫妻の壮絶な諍いの果て、わずか10歳で言語を喪失し、成長を止めたという長女・マヤが登場する。撮影時でマヤは49歳。敏雄の浮気が発覚して、ミホは精神病を発病して入院、敏雄も続いて同じ病気に。この出来事がマヤを病ませたのだった。49歳になった娘・マヤの痛ましい姿を何故カメラの前に露出させたのか?これは、普通の母親の感覚では到底ありえないことだと感じた。
 だが、母親であるミホは、「神はマヤに試練をお与えなさった」とつぶやくだけ。どこかで聴いたような言い回しと思ったら、やはりミホはカトリック信者だった。日本列島の原風景をとどめるような自然豊かな奄美諸島で、何故、キリスト教流のとげとげしい「神との対話」など必要だったのだろうか?神のご加護や試練を言う前に、わが子マヤに対して犯してしまった自分の「罪」をこそ問うべきではないのか。

 実は、ミホと瓜二つの人物が私の親族にはいた。夫は学徒出陣で小笠原諸島に漁船で特攻出撃、幸い九死に一生を得た。戦後は市井の教師として静かな一生を過ごした。だがしかし、その妻はまさに島尾ミホもどきだった。夫の”浮気”を生涯責め立て、親族の”裏切り”を呪い、自分は”立派な”カトリック信者であると言い張って、その一生を終えた。島尾ミホの独白を聴いていて、その相似性ゆえに、正直、私は背筋が凍るような思いがした。この国には、キリスト教は馴染まない、人を幸福にはしない。そう思った。

 戦争体験、女の執念…何とでも理屈はつけられるに違いない。しかし私にとっては、忌まわしきカトリックの記憶がこびりついて離れない。


陰陰滅滅たる独白は、カトリックの悪夢を呼び覚ます…



※  映画「ドルチェ 優しく

アレクサンドル・ソクーロフ監督と奄美の作家・島尾ミホが出会い、生まれた映像小説。海に囲まれた加計呂麻島を舞台に、ソクーロフのモノローグで島尾家の歴史が綴られて行く。終戦直後の夫婦の出会い、結婚、愛の葛藤、死、自身への問いかけ…。

監督:アレクサンドル・ソクーロフ/撮影:大津幸四郎/音声:セルゲイ・モシコフ/編集:アレクサンドル・ヤンコフスキー、セルゲイ・イワノフ/出演:島尾ミホ/島尾マヤ/島尾敏雄(写真構成。1917-1986)

1999年//63分/カラー/日本+ロシア/2000年ヴェネチア国際映画祭招待作品

DVDの内容紹介

●アレクサンドル・ソクーロフの“日本三部作”第三作

●ロシアのアレクサンドル・ソクーロフと奄美の作家・島尾ミホ。ふたりの出会いがこのような映像となって結実するとは誰が想像しえただろう。
そして島尾ミホその人を知る者はさらに驚くにちがいない。目深に被った帽子と眼鏡をはずすことのない彼女が、本作では赤裸に島尾ミホ自身を演じているのだから。
映画の冒頭は加計呂麻島を臨む海。背中を向けたソクーロフが、古い写真にかさねて、ある男の生涯を語りはじめる。
貿易商の長男に生れた読書の好きな病弱な少年は、長じて青年士官となり、加計呂麻島の海軍基地に赴任する。すべてを国家に捧げた27才の男は、島の小学校の女教師ミホとめぐりあう。出撃を前に終戦を迎えた特攻隊の隊長はその後、作家となった。こうして「死の棘」の島尾敏雄はミホと娘のマヤたちを遺し、1986年、脳内出血で世を去った。
海原に冴える満月。障子の向こうに波間がひろがる。壁にもたれたミホが、ささやくように語りはじめる。アンマー(母)のこと、ジュウ(父)のこと、敏雄との愛の葛藤、そして死。自身への問いかけ、娘マヤとの愛。
ほかに例を見ない正方形に切り取られた画面のなか、ミホは涙して思い出を語り、古謡を口ずさむ。

●過ぎ去った一切は、たとえそれがどんなに辛い記憶であっても、どこか甘い匂いが漂う。ドルチェ=DOLCEという題名は、フェリーニの傑作『甘い生活』LA DOLCE VITA(60)を連想させる。『インテルビスタ』(87/フェリーニ)では、アニタ・エクバーグとマルチェロ・マストロヤンニが『甘い生活』を見るシーンがある。決して齢をかさねることのないスクリーンのふたりを見つめる27年後のふたり!
『そして船はゆく』(83/フェリーニ)のロシア語版を監修したこともあるソクーロフは、島尾ミホにアニタ・エクバーグを重ねているかのようだ。

●さて、ソクーロフと島尾ミホの出会いはどのように導かれたのだろうか。
“日本三部作”の第一弾と呼ぶべき『オリエンタル・エレジー』(96)で、ソクーロフは日本の各地を撮影した。ソクーロフ独自のスタイルがエキゾチックな異国情緒を放つこの作品は、オリエンタルというよりも日本へのエレジーにあふれている。
そして『穏やかな生活』(97)では、奈良県明日香村に暮す老婆の穏やかな生活を綴っている。このような過程で得た多くの日本の友人たちの輪の中で、ソクーロフと島尾ミホとの距離は本人たちが知らないところで急速に接近していたのだ。
 友人からの電話で島尾ミホという存在を知ったソクーロフは、会ったことさえない彼女を撮ることを即断し、日本ではすぐさま製作態勢が整えられた。

●その昔、奄美には近隣の島や本土、沖縄のみならず中国の手品師、ロシアのラシャ売りが訪れ、島尾家ではそうした来客を厚く迎えたという。
ミホが育った島尾家の風土と、ロシア人を「彼ら」と呼び、日本人を「我々」と語るソクーロフのアイデンティティを知れば、ふたりはいつか出会うべく交差する海流に船を浮かべていたのだ。