澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

鬼太郎の戦争 ~ 水木しげる氏が逝去

2015年11月30日 19時22分33秒 | 

 さきほど、水木しげる氏の訃報を聞く。

 この夏、「水木しげるの戦争と新聞報道展」という展示会を見に行き、案内の方から「水木先生ご本人も車椅子で来場された」と聴いたばかりだったので、こんなに早く悲しい知らせを聞くとは思ってもみなかった。

 TV各局はいっせいに訃報を伝えた。私は「ゲゲゲの鬼太郎」の放映権を持つフジテレビと、「ゲゲゲの女房」を放送したNHKを見たところだが、NHKニュースが「水木しげる氏は戦争の悲惨さを描き、平和の大切さを訴えた」「お化けには、人種も民族も偏見もない。そういうものを描いた」とかもっともらしいコメントを加えるのには、いささかゲンナリした。

 水木氏本人は、現実政治や大それた「思想」とは無関係な人であったはずだ。「平和憲法」を守ろう、「安保法制」はけしからんなどと言う人たちが、水木氏亡き後、そのイメージ、言動を都合よく利用しかねない危惧を覚える。水木氏の戦争体験は、あくまで個人的な吐露に過ぎなかったはずなのに…。

   文化功労者の授賞式のあと、TV局のインタビューで「陛下からはどのようなお言葉がありましたか?」と訊かれたとき、水木氏は「忘れました。ほとんど何も言われなかったんではないですか」と応えた。そこに夫人が「ふざけちゃだめよ」と割って入った。そのときだけ、水木氏の心の中にある「暗闇」が垣間見えたような気がした。
 
「朝イチ!」の有働由美子は「水木先生は”敵地”の住民とも仲良くしておられた」と宣った。有働は、水木本人にインタビューをしたことがある。だが、目の前にいる水木氏の心の内を何一つ読めなかったのだなあと思った。

 ともあれ、「水木しげるの戦争」がテーマの展示会を見ることができてよかった。

 こころからご冥福をお祈りしたい。

 

 

「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん 多臓器不全で死去 93歳

スポニチアネックス 11月30日(月)12時47分配信

 「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家の水木しげる(みずき・しげる、本名武良茂=むら・しげる)さんが30日午前7時18分、多臓器不全で東京都内の病院で死去した。93歳だった。鳥取県出身。

【写真】水木しげるさんの妻で「ゲゲゲの女房」の著者、布枝さん

 水木さんは11日に東京都調布市の自宅で転倒。頭部を強く打ち、入院していた。葬儀は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻の武良布枝(むら・ぬのえ)さん。

 高等小学校卒業後、漫画家をめざし、大阪で働きながら漫画を学び、戦争中は陸軍の兵隊としてニューギニア方面に出征。戦後は一時紙芝居を商売にしていた時代があった。

 1958年に貸本漫画家としてデビュー。「河童の三平」「悪魔くん」などを発表し、「ゲゲゲの鬼太郎」が「週刊少年マガジン」に連載され、妖怪を扱う人気漫画家となり、テレビアニメ化されてからは妖怪ブームが巻き起こった。

 幼少時に妖怪の話を教えてくれた老婦人との交流を描いた自伝的なエッセー「のんのんばあとオレ」(後に漫画化)や「水木しげる 妖怪大画報」のほか、「総員玉砕せよ!」「娘に語るお父さんの戦記」など、戦傷で左腕を失った自らの戦争体験に根差した作品も多い。

 幼少期を過ごした鳥取県境港市には愛着があり、93年には「水木しげるロード」が設けられ、03年には「水木しげる記念館」が建てられた。10年には妻の布枝さんが書いた「ゲゲゲの女房」がNHK連続テレビ小説として放映され、その生きざまが共感を呼んだ。91年に紫綬褒章、03年には旭日小綬章を受章。10年文化功労者。



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