澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「天皇の玉音放送」(小森陽一著)を読む

2015年12月08日 21時08分22秒 | 

 「天皇の玉音放送」(小森陽一著 五月書房 2003年)を読む。

 本書は、現在、品切れ。アマゾンの古本では、何と一円の値段で購入可能。そんな本を今になって何故読むのかは、ちょっと記しておかなければならない。
 7月末、米国の外交文書が公開され、驚くべきニュースが伝えられた。1971年、中国の国連代表権問題をめぐって、昭和天皇が当時の佐藤栄作首相に蒋介石支持を指示したというのだ。
 言うまでもなく、現行憲法では天皇の政治的発言は許されていない。戦後四半世紀を過ぎてなお、昭和天皇がこのような発言をしていたことは、従来流布されてきた「平和を願い続けてきた天皇」というイメージを根底から覆すインパクトがあり、ヒロヒトの人間性を疑わせるのに十分だった。

 それ以来私は、天皇の戦争責任に関して書かれた本をかなり読んでみた。その中で、一番鋭く本質を衝いていると思ったのが、この「天皇の玉音放送」だった。


「天皇の玉音放送」(小森陽一著 五月書房 2003年)

 著者の小森陽一氏は国文学者であり歴史学者ではないが、歴史や政治について積極的に発言している。かつてNHKの教育テレビで「歴史は眠らない 沖縄・日本の400年」を講義したさい、NHKの方針と合致しない内容をテキストに記したため、テキストの全面回収と番組の後半部分の放送延期という”事件”も引き起こしている。厳密な資料操作を自負する歴史学者がかえって「木を見て森を見ない」ような記述で読者を失望させるのに対して、小森氏の文章はストレートな言葉で鋭く本質をえぐる。例えば、こんな調子で…。

『…「国体」とは大日本帝国憲法第一条の「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」という神話を歴史に転倒した空虚な血統主義的幻想と、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」と第四条の「天皇は国の元首にして統治権を総攬し」という権力の絶対化にほかならない。換言すれば、敗戦直前の、米軍の空爆によって焦土と化した大日本帝国にとって血統神話とそのなれの果てのヒロヒトの身体にしか、「国体」の実態は存在しない。だからこそ、「その場合には」、「三種の神器」を「自分がお守りして運命を共にする外ないと思う」という信じがたい空論が、最高権力者本人によって、まことしやかに語られてしまうのである。…ヒロヒトは「敗北を抱きしめて」ならぬ「三種の神器」を抱きしめているしかなかったのである。そのような男に、生殺与奪の権を握らせていたのが「軍人勅諭」と大日本帝国憲法と「教育勅語」の体制だったのだ。』(同書 p.28)

 この夏公開された映画「日本のいちばん長い日」のキャッチコピーは、「このご聖断が今の平和を築いた」だった。天皇がポツダム宣言受諾を決意したからこそ、今の繁栄があるという、およそ史実とはかけ離れた「妄想」「自画自賛」だった。一方、小森氏の記述は、天皇に好意を抱く人たちにとっては実に耳障りであるだろうが、概ね、納得ができる内容だと思われる。

 小森氏は「九条の会」を主宰する、現役の東大教授。言ってみれば、バリバリの左翼だ。思想信条的には、私などはとても受け入れがたい。だが、上述の映画キャッチコピーのような歴史観が蔓延するとなれば、話は別。左翼の立場から「菊のタブー」に敢然と挑んだ感のある本書は、一度手に取ってみるべき書物なのかもしれない。少なくとも「絶版」になるには惜しい本だ。

 
 


 



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