まずはその名の由来から・・・。「ちんどん屋」の演奏する楽器の代表格ともいえる「ちんどん太鼓」ですが、これについている「鉦(かね)」を叩くと鳴る「ちん」という音色と、「締太鼓(しめだいこ)」を叩くと鳴る「どん」という音色が合わさって、「ちんどん屋」と言うようになったとか・・・。
楽器を用いたり、口上を述べたりして物を売り歩く職業としては、江戸中期より「飴売」という存在がありました。これは、先日「ちゃんちゃんこ」のときに書きました。
また、日本橋の薬店が文久年間(1861~1864年)に、緋ビロードの巾着を下げ、赤い頭巾をかぶって市中を歩き広告をしたという記録があるそうですが、これは自店の売り物を宣伝するためであり、専業のチンドン屋とはいえません。
■1845年(弘化2年)ちんどん屋の元祖といわれる「飴勝」登場
千日前の大阪法善寺の飴売り「飴勝」は、竹製の鳴り物と売り声で客寄せをして人気者になったそうです。
この売り声を商売にすることは出来ないかと考えた「飴勝」は、寄席の客寄せを請け負います。短い法被に大きな笠、脚袢にわらじ、拍子木をさげて町にでて寄席の宣伝をしたそうです。
これがちんどん屋の元祖といわれています。
■1854年(安政期)ちんどん屋の原型といわれる「紅かん」登場
紅かんとは安政期(1854年から1859年)から明治初期にかけて活動江戸中期に実在した大道芸人。もともとは紅屋勘兵衛というれっきとした商人でしたが、遊芸好きで大道芸人の真似事をしているうちに人気が出て、もっぱらそちらで名を知られるようになったという変わり者だそうです。
彼の芸は、青竹の棹に味噌濾しの胴を付けた自家製の三味線を演奏する事です。それに加えて、腰に取り付けた小太鼓や鉦、笛なども演奏し、おおいに話題になりました。これがちんどん屋の原型といわれています。
■1883年(明治16年)大阪の勇亀が「東西屋」と呼ばれる
飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)は、芝居の口上をまねて「東西、トーザイ」と大声で叫びつつ、町中を触れ回ったそうです。
このため勇亀は「東西屋」と呼ばれるようになります。以後「路上広告業」は、「東西屋」として街頭宣伝業の一般名詞へと転じた。
■ 1885年(明治18年)東京で「広目屋」秋田柳吉デビュー
アンパンの「木村屋」の3代目となる英三郎の弟・儀四郎は、大阪出身の「東西屋」の秋田柳吉と知り合い、楽隊を使った宣伝のアイデアを耳にしたそうです。この案をさっそく実行に移したのが、今のチンドン屋宣伝の始まりだそうです。秋田柳吉が初めて東京で、東西屋式の宣伝を行ったのです。
■1888年(明治21年)廣目屋創業
大阪出身の秋田柳吉が1888年(明治21年)、東京市京橋区五郎兵衛町に「廣目屋」創業した。以後、彼のまねをする業者が増え、宣伝行列のことを「広目屋」というようになったそうです。
■1889年(明治22年)広目屋がいざ大阪へ
中之島にあった「ホテル自由亭」が、専属音楽隊を雇い入れ、楽士達を人力車に乗せて、大阪中を吹き回った。大阪人が鳴り物いりの広告を見たのはこのときが初めてだそうです。
■1890年(明治23年)丹波屋栗丸 滑稽鳴り物入りで
大阪で豆や栗を売っていた丹波屋栗丸は売り声と口上が評判で、「かしわ屋(鶏料理)」などの宣伝も受け持った。松に羽衣つきの長半纏が大うけ。ラッパや太鼓も使い「滑稽鳴り物入り路傍広告業」と呼ばれる。
1888年(明治21年)、「明治屋(磯野計)」(横浜)は「ジャパン・ブルワリー社(現在の麒麟麦酒株式 会社の前身)」との総代理店契約を締結し、「キリンビール」の一手販売を開始しました。
その明治屋が、1891年(明治24年)高さ1.8m以上のビールの「張りぼて」を着た、数十人の騎馬隊を編成。銅鑼や太鼓の鳴り物で横浜から東京まですごい宣伝行列を行った。
■1904年(明治37年)日露戦争
大阪では栗丸が、純日本式の鳴り物入り宣伝隊を組織。大太鼓、〆太鼓、鉦、三味線、横笛などを使った。
■1907年(明治40年)株大暴落
明治40年代、活動写真が大人気。楽隊時代終わる。広告は新聞が主流。楽隊広告、東西屋、広目屋、は急速に仕事を失う。
■1911年(明治44年)ライオン歯磨き大移動
東海、北陸へ宣伝キャラバン隊を送り出します。「ライオンの歯磨き」と書いた100本以上の幟(のぼり)をたてて行進。 のち音楽隊広告の人気はますます高まるばかり。
■1923年(大正12年)関東大震災
時代に取り残された広目屋、東西屋は都市を追われ、4~5人の編成で、鉦と太鼓を鳴らしながらの街回りが精一杯。
■1931年(昭和6年)東西屋、広目屋が、ちんどん屋と呼ばれはじめる
大正時代に考案された「ちんどん太鼓」。ひとりでいろんな楽器を演奏できるよう鉦と太鼓を一緒にしたものだが、ここから東西屋、広目屋は「ちんどん屋」と呼ばれだした。
■1941年(昭和16年)第二次世界大戦・ちんどん屋禁止令
他の大道芸も一切禁止。ちんどん屋が浮かれて町を歩く時代ではなくなった。
■ 1960年(昭和35年)ちんどん屋といえば古くさい
昭和30年代後半からテレビが普及。大衆の音楽の好みの変化もあり、ちんどん屋は古くさいといわれるようになりました。
「ちんどん屋」とは、締太鼓(しめだいこ)と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装・仮装によって街を廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込み、また集客した上で宣伝の口上やビラ撒きなどで商品の購入を促す宣伝業のことです。
広目屋の楽隊広告が大阪で鉦や太鼓の囃子を交えた編成となり東西屋に持ち込まれたそうです。両者の交流が、現在のチンドン屋の楽器構成を生み出したと言えるそうです。
関東では音楽を主体とした「ひろめや(披露目屋・広目屋)」、関西では口上を重んじる「東西屋」という呼称も用いられる。
最近では、存在そのものが珍しくなったため、自治体主催の祭り会場に大道芸として呼び出されるたり、宴会などにも呼ばれることがあるそうです。
私の子どもの頃は、新規開店のお店があると「ちんどん屋」が町内を練り歩いていました。
したっけ。
今ではすっかり見なくなりましたね^^
鉦と太鼓の賑やかな音は気持ちを明るくしてくれそうです(*^。^*)
見なくなりましたね~。
今では一軒のお店の集客範囲も大きくなりましたから、ちんどん屋さんでは間に合わないのでしょうね^^
したっけ。
いつもありがとうございます♪
子供時代後ろについて歩きました。
今ではドラマのワンシーンで見て
懐かしく思い出します。
言われていたんですね。
ちんどん屋、なくなってしまうのは
ちょっとさびしい気がするけど、
今の時代は、もう見ることがありませんね。
そうですね。私もついて歩いていましたね^^
したっけ。
そうでもないようですよ。
珍しさからか、復活しているようです。
したっけ。
そうです。いなくなった今だからこそ目立つんですね。
ネットで検索すると何軒かあるようです。出張賜ります、なんて書いてある^^
したっけ。