木村芥舟の日記から
慶応3年12月30日
菓子パン12斤小松屋より差越(送ってよこす)代金2円、当方で払っておく。織田和泉守信重へ3斤、赤松範静へ同量、土岐頼礼へ同量、残りが木村家の分だったと思われる。
木村芥舟の妻が福沢諭吉に(ワーフル)という菓子を焼いて出したことがあった。多分ワッフルのことだろう。江戸の小松屋はワッフルを販売していたのだろうか。
木村芥舟さんの『やせ我慢の説』の文中で福沢諭吉の思い出の文中にワーフルが出てくる。慶応3年10月に大政奉還があり、翌年の1月早々鳥羽伏見の戦いから徳川幕府が崩壊する。この間にワーフルの贈答があった。食べ物の記憶が30年以上たった時、福沢諭吉とともに出てきたのだろう。慶応3年10月に福沢諭吉の謹慎からその謹慎解除の件で中島三郎助が活発に活動していた。やせ我慢の説が成立した背景に福沢諭吉が静岡清見寺の咸臨丸の碑を見た後だったという。勝海舟・榎本武揚の生き方と中島三郎助の生き方から書きたかったと思われる。慶応3年末には中島三郎助は今の浜離宮に住んでいて、末子を生んだ。木村芥舟も浜離宮生れである。そして築地市場は浜離宮の隣にある。
ワーフルは食べ物である。しかしその食べ物が人の時間の記憶と複合したとき、別の意味を持つことがある。福神漬は漬物である。しかし,命名の時期(明治16年から18年頃)から時の記憶に残る人もあったと思われる。
慶応3年12月30日
菓子パン12斤小松屋より差越(送ってよこす)代金2円、当方で払っておく。織田和泉守信重へ3斤、赤松範静へ同量、土岐頼礼へ同量、残りが木村家の分だったと思われる。
木村芥舟の妻が福沢諭吉に(ワーフル)という菓子を焼いて出したことがあった。多分ワッフルのことだろう。江戸の小松屋はワッフルを販売していたのだろうか。
木村芥舟さんの『やせ我慢の説』の文中で福沢諭吉の思い出の文中にワーフルが出てくる。慶応3年10月に大政奉還があり、翌年の1月早々鳥羽伏見の戦いから徳川幕府が崩壊する。この間にワーフルの贈答があった。食べ物の記憶が30年以上たった時、福沢諭吉とともに出てきたのだろう。慶応3年10月に福沢諭吉の謹慎からその謹慎解除の件で中島三郎助が活発に活動していた。やせ我慢の説が成立した背景に福沢諭吉が静岡清見寺の咸臨丸の碑を見た後だったという。勝海舟・榎本武揚の生き方と中島三郎助の生き方から書きたかったと思われる。慶応3年末には中島三郎助は今の浜離宮に住んでいて、末子を生んだ。木村芥舟も浜離宮生れである。そして築地市場は浜離宮の隣にある。
ワーフルは食べ物である。しかしその食べ物が人の時間の記憶と複合したとき、別の意味を持つことがある。福神漬は漬物である。しかし,命名の時期(明治16年から18年頃)から時の記憶に残る人もあったと思われる。