アジア歴史資料センタ- デジタル資料より
職員録・明治六年一月・袖珍官員録改
工部省 7等
大録 長井昌言
やっと明治の鉄道に鶯亭金升の父、長井昌言が鉄道関係の仕事をしていたという資料を見つけた。昌言は明治6年に死去しているので、明治5年の官員録を見たが掲載されてはいなかった。
幕臣だった長井昌言が鉄道関係の役人となったのは初期鉄道史には出てこない。鉄道開業時、鶯亭金升は見に行ったと書いてあったが事実だろう。どうして鉄道関係の仕事を得たかまだ不明だか高島嘉右衛門のコネだろう。そうすると花香恭次郎がやはり鉄道開業時に横浜に行ったのも長井の手引きと考えられる。長井が明治6年に死去し、花香恭次郎が横浜を去り、農業経営のほうに向かうが向上心のある恭次郎にとって田舎は我慢の出来ない生活だっただろう。やがて二本松藩出身の服部誠一(撫松)の経営する公益問答新聞に新聞記者として勤めるようになる。二本松藩は大垣戸田家と関係があって花香が採用されたと思われる。花香がそこで宮城県出身の佐藤清と知り合い、西南戦争が勃発すると新聞社の方針と異なり退社し東北に向かう。自由民権運動福島事件の被告人花香恭次郎が幕臣士族の出で、唯一東京出身の被告人で高等法院の公判が注目された理由の一つである。