七偏人のあとがき( 興津要)から
梅亭は旧幕臣の次男として生まれた。長男の権限が絶対的な江戸時代では次男以下の男子は能力を上げ、養子先を見つける行動をとらねばならなかった。学問や剣術で名声を得ることが必要だった。うまく養子先を見つけさらに向上心のある人と養子となって安心し道楽を始める人がある。梅亭は後者の人だったようだ。瓜生家に養子となった弘化2年の頃は(アヘン戦争の余波で)剣術から砲術重視に変わる時代だった。剣術しかない人生が時代の変化で役立たずになったことから、戯作の世界にのめりこんでいった。刀剣に対するこだわりを梅亭が完全に捨て去ったのだろうか。福神漬を命名した時、最初から入っていた(なた豆=刃豆)を見て食品に見立てや比喩を入れなかったとはとても考えられない。明治10年代後半の政治経済状況で江戸の生活を馴染んだ梅亭金鵞が文明開化についてゆけず、さらに露骨な言論弾圧を避けて、食品名に薩長政権批判の比喩を入れても不思議ではない。