今日、京橋図書館に小林清親の本を借りに行く。築地市場への帰りに築地警察署の脇を通り抜けるのだがいつも小林多喜二がここで惨殺されたことを思う。何故だか解らない。
ふと今日思ったのだが小林多喜二を惨殺する理由があったのではなかったか。もし、行き過ぎた拷問の結果殺したのではなかったように考えてはどうなるのだろう。
高野長英が嘉永3年10月末に殺されたのは最初から取り締まる町与力等が殺害する希望があったと思う方が自然である。江戸市中に潜伏していて何年も捕まえることなく獄中で逃亡生活を話されては南町の与力のメンツが立たない。高野長英の投獄理由と小伝馬町獄舎から逃げた件と分離して考えたとすると高野を匿った内田弥太郎を見逃す理由の一つとなる。内田は下曽根金三郎の配下として、嘉永年間浦賀で働いていた。嘉永年間の浦賀奉行は戸田伊豆守氏栄である。下曽根は南町奉行だった筒井政憲の次男だった。筒井は戸田の3男を長井家との養子縁組をまとめた。この複雑な関係が福神漬の由来を調べてゆくうちに気になってくる。
小林多喜二は蟹工船、北洋漁業の缶詰産業である。福神漬の缶詰を調べてゆくと蟹加工の重労働が必要性となることを知ることとなる。三菱商事が食品を扱うようになったのはロシア革命前後の北洋漁業の缶詰産業から始まる。大正12年7月三菱商事会議室での会合で福神漬の由来が鶯亭金升(戸田氏栄の孫)によって語られる。