年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

二番町

2017年07月27日 | 福神漬

今は汐留に移転した日本テレビは旧社屋が千代田区二番町に残っている。時々汐留からに番町行きのバスが出ているようである。この二番町に江戸時代の弘化年間ころ若林家があった。後に講談師となった若き松林伯円の養子先だった。伯円が一番長く出入りしたところが久世家筒井家にも出入りしていた。中込重明著(明治文芸と薔薇)より

 中込氏の研究によると筒井政憲から南町奉行の時の事件の詳細を聞いて松林伯円が講談化したものがあるという。筒井は蛮社の獄のとき、南町奉行だった。些細なことで町奉行を左遷され閑職になったが天保の改革が終わり再び幕政に戻ると外交方面で活躍した。高齢になり二番町に隠居した時、松林伯円を自宅に招きいれていたとき南町奉行の事件を話したと思われる。

 惜しくも中込重明氏は2004年病気で亡くなったが、もう少し二番町を調べていたら長井家の所も調べつくすこともあっただろう。高野長英惨殺事件の解明も進んだと思われる。

 小伝馬町牢獄から逃亡した高野が江戸市内で生きていることを知った町奉行としては面子もあるので惨殺せざるを得なかったと思われる。しかし高野を匿い逃亡を援助した内田弥太郎を処分することは出来なかった。嘉永3年内田は浦賀で下曽根金三郎の下で海防支援活動をしていた。下曽根は筒井政憲の次男であり、内田へ嫌疑が及ぶと下曽根まで及ぶと考えたほうが理解できる。ここに浦賀奉行だった戸田氏栄が関与してもおかしくない。

 高野の惨殺事件が戸田氏栄の遺児鉄丸が千葉万歳村の花香家に養子となった遠因と思う。花香安精は和算家内田弥太郎の学問上の弟子だった。花香家で養子を得る時、名前に恭としたのは内田の最初の名前である内田恭から来ていると思われる。千葉旭市万歳にある花香安精供養碑に内田五観(弥太郎)の文がある。

 二番町に旗本御先手弓組長井五右衛門昌純の家もあった。長井家の七箇所の知行地のうち二箇所は旭市飯岡と上永井となる。上永井は九十九里海岸の北の外れの行部岬灯台のあるところである。

 福神漬の語り部である鶯亭金升はその日記の中で筒井政憲の世話で長井家のところに父が養子に行ったという。長井五右衛門昌言となった。元は戸田氏栄3男である。

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