2回目の国立劇場最終公演観劇 遠山桜天保日記
北町奉行の御白州の場で遠山金四郎さんが判決を言い渡した時、掛川の広楽寺へ所払いだった。築地の大谷図書館で前回の台本で見かけなかったのでメモして、家で調べると三代目尾上菊五郎の墓があって縁があるようだ。2008年の上演時に押上の最教寺というセリフは隠しメッセ―ジで本当は役者寺で有名な大雲寺の事をセリフにしたかったが敷地が隣接していた最教寺となったようだ。大雲寺はやはり尾上菊五郎の墓がある。今は関東大震災等で寺院が焼失し、江戸川区に移転しいる。初演の明治のころは観客の通人は知っていたのだろう。令和の今、掛川広楽寺が何を意味するか何人が知っているのだろうか。昔の常識は今の人には通じないものがある。
明治の初めは、芸者は芸を売ることで生計を立てていたが野暮な薩摩長州のナマズ髭の新政府官僚が権妻を得るため体を売る方向にもっていった。新聞記事で校書のところにゲイシャとルビが振ってあった。中国の女流漢詩人で日本の感覚では清少納言か紫式部のような才能があって、酒席に出ていた。明治20年代の古参の芸者が『今の若い娘は芸を磨かず』と嘆いていた。要は色気で権妻の地位を狙っていた。
芸の優れていた清元のおわかは 明治のころの台本では押上の最教寺の裏となっていた。従って身売りされても年季明けになる可能性があった。遊女の年季明けの生存率は意外と少ないという。それゆえ苦界という。
こんどの遠山桜天保日記は現代人にも理解しやすく改変されているが初演の台本が理解できなかったことの解明は進まない。日本にフランスのユーゴ―の巌窟王(レ・ミゼラブル)が翻訳されたのが明治30年代で、この台本と数年の時差がある。もともとの冤罪から始まった犯罪の輪で遠山は全て減刑してしまった。
正月の歌舞伎ということで死人もすべて生き返るという流行りの韓流ドラマの展開と思った。