金文子さんの講演会の後、公式な文献にも怪しいものがあることを知った。さらに井関隆子日記から『徳川実記』にも事実と異なる公式記録があることを知った。井関隆子の隣に徳川実記の編者の一人だった新見正路の住んでいて良く通っていた。井関の日記を研究している深沢氏によると、後の世に見られることを意識した日記であるという。井関家には戸田氏栄の妹か姉が嫁いでいてしばしば隆子と話していた。戸田も印旛沼工事の目付けとなる前は幕府の史書編纂事業に参加していて『干城録』『朝野旧聞襃藁』を20年以上にわたって編纂していたが安い給料の愚痴を隆子に言っていた。井関隆子は後世の人たちがどのように事績を見るかを意識して日記を書いていたと思われる。
さて問題はペリー来航時に関する公文書は多数存在するが実際のところ浦賀奉行所の対応と公式な文書に食い違いがあり、明治になって薩長政権によって書かれた歴史に今でもとらわれている気がする。その代表は香山栄左衛門の上申書である。彼はペリー来航を知らされていないので悔し涙を流したという。本当なのだろうか。ある程度知っていたが予算不足で対応できなかったことの悔し涙ではなかったのでないのか。吉田松陰は東浦賀で黒船を見て的確に指摘していた。外様の人たちが知っていて、長崎から堀達之助等の通詞が浦賀奉行所に駐在していて情報がないとは思えない。香山の幕府への上申書作成は浦賀奉行戸田氏栄のアドバイスがあったと思われる。堀達之助の記録によって官職偽装『浦賀副奉行』の件で悩んでいたようだ。結局国書受け取りとなり、細かな対応の誤りは指摘されず、かえって速やかに退去させたことが『開国の裏取引疑惑』を招き、翌年に再来日したぺりーに対する応接の場から意図的に香山と戸田がはずされた。特に開国の意見を強く主張していた戸田氏栄はこの後閑職に左遷された。
何が真実だったのか。