横須賀の図書館でぺリ-来航直前の史料を読んでいると当時の浦賀の海岸防備があまりにもひどく、現地の奉行と与力・同心の不満が良く理解できる。浅野 長祚が浦賀奉行の転任願いを嘉永5年に認められた。浅野が浦賀に着任後幕府に現状改善の上申書を提出していたが、結局改善の見込み無く、転任願いを出したようだ。浅野梅堂著(朝野纂聞)は京都町奉行へ転任後で嘉永年間は浦賀の史料で見るしかない。
勝海舟の陸軍歴史に詳しく書いてあるが、大砲の数も少なく、さらに米船の大砲との飛距離・威力の差は歴然でとても戦闘する力はなかった。浦賀水道通過は自由に通過することを知られてしまった。1846(弘化三)年に通商条約を日本と結ぼうとしたアメリカのビットル来航は浦賀防備の欠点を明確にした。ビットルの船隊の大砲の数は二隻で100門でこれはぺり-艦隊の4隻の砲門60をはるかに超える。あわや米船と戦闘寸前までいったが与力見習いの中島三郎助の活躍で歴史の記憶からビットル来航が消えた。
この時の対応を日米が研究し、ペリ-来航を迎えることとなった。日本の対策はほとんど用意できなかったが唯一ビットルの時は浦賀から遠いところに停泊させたため、警備のための徴用した船への食料運搬に難儀したので浦賀奉行所から近いところで停泊させた。アメリカは日本船の囲い船対策で蒸気船を用意した。帆船は風が無いと止まって移動できず、圧力をかけにくかった。日本の役人が驚いたのが風がなくとも前後に船が動いたことだった。日本は小型の船しかなく、比較的大きい千石船は帆走だった。小さな船は帆走と手で漕いでいた。もし蒸気船でなければ幕府のかねてからの方針であったぶらかし(交渉を長引かす)になったかもしれない。しかし浦賀水道を封鎖するので江戸の物価急上昇という恐れもあった。
ビットル来航もペリ-来航も好奇心の多い人(やじ馬)で浦賀は混乱した。多くの情報があふれ全国に危機感を与えた。