年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

文献を読んでいてこれは酷い

2019年11月08日 | 福神漬

横須賀の図書館でぺリ-来航直前の史料を読んでいると当時の浦賀の海岸防備があまりにもひどく、現地の奉行と与力・同心の不満が良く理解できる。浅野 長祚が浦賀奉行の転任願いを嘉永5年に認められた。浅野が浦賀に着任後幕府に現状改善の上申書を提出していたが、結局改善の見込み無く、転任願いを出したようだ。浅野梅堂著(朝野纂聞)は京都町奉行へ転任後で嘉永年間は浦賀の史料で見るしかない。

 勝海舟の陸軍歴史に詳しく書いてあるが、大砲の数も少なく、さらに米船の大砲との飛距離・威力の差は歴然でとても戦闘する力はなかった。浦賀水道通過は自由に通過することを知られてしまった。1846(弘化三)年に通商条約を日本と結ぼうとしたアメリカのビットル来航は浦賀防備の欠点を明確にした。ビットルの船隊の大砲の数は二隻で100門でこれはぺり-艦隊の4隻の砲門60をはるかに超える。あわや米船と戦闘寸前までいったが与力見習いの中島三郎助の活躍で歴史の記憶からビットル来航が消えた。

 この時の対応を日米が研究し、ペリ-来航を迎えることとなった。日本の対策はほとんど用意できなかったが唯一ビットルの時は浦賀から遠いところに停泊させたため、警備のための徴用した船への食料運搬に難儀したので浦賀奉行所から近いところで停泊させた。アメリカは日本船の囲い船対策で蒸気船を用意した。帆船は風が無いと止まって移動できず、圧力をかけにくかった。日本の役人が驚いたのが風がなくとも前後に船が動いたことだった。日本は小型の船しかなく、比較的大きい千石船は帆走だった。小さな船は帆走と手で漕いでいた。もし蒸気船でなければ幕府のかねてからの方針であったぶらかし(交渉を長引かす)になったかもしれない。しかし浦賀水道を封鎖するので江戸の物価急上昇という恐れもあった。

 ビットル来航もペリ-来航も好奇心の多い人(やじ馬)で浦賀は混乱した。多くの情報があふれ全国に危機感を与えた。

 

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高野長英惨殺時の処分について

2019年11月08日 | 福神漬

嘉永3年10月末に高野長英が四谷の隠れ家で南町奉行の与力-同心によって逮捕時、殺された。当時の捕縛の基本は生かして逮捕することだったが記録によると高野が捕縛時の混乱中に自殺を図って、死去したという。高野長英の評伝本の著者鶴見俊輔氏によると与力たちによって高野は撲殺されたという。11月から高野を匿った者たちの取り調べがあって、12月までに処分が決まった。遠島とか江戸追放などの処分があったが主として高野を江戸で匿った主導者内田弥太郎(五観)は処分されなかった。このことは当時でもおかしいという風聞があった。鶴見氏によると処分された親族の知り合いが内田を恐喝していたという。この恐喝がなぜ消えたのかはまた謎として残る。


 嘉永3年の江戸の南町奉行は遠山景元(金さん)で浦賀奉行の江戸在任は戸田伊豆守氏栄・浦賀在任は浅野 長祚(あさの ながよし・嘉永5年・退任)だった。この時の筒井紀伊守は幕府上部と頻繁な情報交換があった。異国船の打ち払い令の復活協議を老中と行っていたし、株仲間の再興を遠山景元とも行っていた。このような時期に高野長英が殺された。


 嘉永の初めのころから、浦賀の警備で下曽根金三郎とその手下として内田弥太郎が働いていた。内田が処分されると上司である下曽根も処分は免れないこととなる。また下曽根の実父は筒井紀伊守であった。このような幕閣の需要人物が高野の一件で流動的になるのを恐れたのだろうか。(まだ具体的な文献は見つからない)天保の改革時、北町奉行だった遠山は高野長英は冤罪に近いと思っているだろう。ただ南の与力・同心・火付盗賊改の人達は江戸市中に潜伏していて、逮捕しても微罪放免はメンツが許さないと思われる。当時の放火は死罪となる重罪である。・

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