「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「老を敬うの日」

2020年09月21日 | つれづれ噺

             
9月21日敬老の日。倅一家4人と、娘方の末っ子が二晩続きのお泊まりで、朝から賑やかなこと。
わざわざ4連休になるように仕組まれた今年の敬老の日は、そんなこんなで我が家ではとんでもない大忙し。ジジババの老を敬ってもらうような段取りではなかった。

それで結構。まだまだ老を敬ってもらう気持ちもないし、敬老の仲間に入れられるのを生涯お断りしたいくらいの気持ちでいる。
可愛くないお年寄りだね~と思われるかもしれないが、誰がなんと思おうと自分自身で「年老いたね~」という自覚が生まれたときが老いであり、その時は自らが老を敬いお祝いしよう。まあ先のことなど解ったもんじゃない。解っているのは、やがて渡るべき黄泉路の川が目の前に横たわっているということだけ。

娘も嫁さんも、ジジババの記念日には何らかのお祝いの気持ちと喜びを表しくれる。なのに、この敬老の日ばかりは全く「知らぬ存ぜぬ」のお構いなし。ということは、自分に老いの意識がないように、彼女らにとっても私たちが敬老の対象に入っていないことを意味するのだろう。それでよし!!
本当に老いが来たときにはお祝いをタップリ頂こう。欲の皮だけは突っ張る若年寄りである。

それに今年の場合、コロナに押されて敬老会というイベントがことごとく中止に追い込まれた。
普段なら、市から、地域福祉協議会などから、地区別に敬老会助成金が出ていたのに、今年はそんな助成制度まで完全にストップしてしまった。
まさしくアクシデントによるイレギュラーをもろに受ける敬老の日となった。長く生きてりゃこういうこともある、ということか。
そして今ひとつ。現在はまだ高齢者を支える働き手がいるから「敬老」などと言っていられるが、やがて働き手と高齢者の比率が逆転したときにはいったいどうなるんじゃろう。

ま、その時までは生きていないから取り越し苦労は止めにするが、人ごとではないよね~。

コメント
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