あれから丸5年という歳月が流れた。
頭の中では今もって、介護病棟のベッドで、息子が来るのを静かに待っているおふくろの姿がある。
未練がましく遠い昔を偲んでいる・・・、などという感情ではない。
なのに、ひ弱なコスモスが初冬の風に頼りなく揺れるのを見ると、5年前のあの時が鮮明によみがえる。
11月10日。100歳7か月を生きた母の祥月命日。
正直なところ、普段は忘れていることの方が多い。
新しいご飯を炊いたとき、真っ先にお鉢様を上げるとき、ローソクに灯をともし、お線香をくゆらすと思い出すくらいの、罰当たりと言われればそうかもしれないねーと反論はしない。
その程度しかしてやれない母への思いではあるが、今日この日ばかりは、朝からちゃんと冥福を祈る気持ちが何よりも優先していたことを自慢したい。というのもやはり変かな~。
心に引っかかるのは「あの時もう少しなんとか・・・」などと帰らぬ時を想ってしまうことである。
今盛んに言われている「緩和ケア」とか「傾聴」という言葉を耳にするとき、どうしても悔いが残る思いがする。
もっと聴いてやればよかった。もっともっと耳を傾け、同じ境地に立ってあいづちを打ってやればよかった。
などと繰り言並べても仕方がないが、せめて今日は、そんな思いに浸るのも許されるのかな、と思っている。
来年はちゃんとした七回忌法要を営むことになる。何かしら心落ち着かない今日一日。 合掌
なのに、ああしてあげればこうしてあげればと言う思いはされるものなのですね。
些細なことに口うるさく言ったりしてすでに後悔することが多い日々ですが、今一度心に留めて接してみようと思いました。
いつもいつも考えているわけではありませんが、やはり祥月命日が近づくと、色んなことを思います。
親子だから言えることもあって、つい一言が余計になったりするものですね。
でも、最後まで同居できたことは双方にとって幸せだったと思いたいです。
いつの時代にも親子の情は変わらないと思いますが、表現の仕方が色々異なるのかもしれませんね。
親孝行したい・・・とみんな思っているのでしょうが、本気でそう思うときは、親が亡くなった後気が付くのかもね。