「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「レンコンは化ける…」

2009年12月19日 | 季節の移ろい・出来事
年末の恒例行事、一日がかりの親戚巡り。
特産岩国レンコンをクルマに積み込み、親戚8軒を順次訪問。年末の挨拶とプレゼントを少々おいて帰る。

幸いなことに、岩国レンコンを仕入れるお店の事務員さんに、中学校の同級生がいてくれる。
10月の同窓会の感謝やアルバムのお礼を丁重に言ってもらった挙げ句に、単価を抑えてくれる。量が量だけに大助かり。こいつぁー出足から縁起がいいワイ…。

途中、義兄のところでは、一人住まいなのでレンコンはやめてお酒にした。
そのお酒が見事に瑞々しい取れ立て野菜に変身。3㎏は優にある大きな白菜、重いよく締まった大根を畑で抜いてクルマに詰め込む。
その上、取って置きのイノシシ肉を「ナベ用」「カレー用」「だし汁用」などに分けてたんまり。これは有り難い。

次には粉石けんに化けたり、里芋・タマネギに化ける。お狸さんでもないレンコンがあれこれ化けるのに忙しい。

実はこれまで12月に入ってからは、新巻鮭や特産のかまぼこ、缶ビール・お酒などなど、全国のお味に、レンコンが化けている。重宝なレンコン様々である。
このような特産を、心ない業者によって、産地偽装などの汚名を着せるのは許されない。

大竹から次の親戚へ走る50㎞を、山越え道を選んだ。大きなダムを二つも通る。
坂道を登るに従って路面が白くなっている。「雪道か…」今年初めてだ。ノーマルタイヤであることも忘れて雪道に心弾ませる。ちょっとクルマから降りて雪化粧を撮る余裕も…。

考えてみれば年に一度の親戚訪問。笑顔を振りまき大きな収穫。迎えてくれる雪景色。
来年からはプレゼントの量を、格上げせんといかんのかなー…。

     ( 写真: 山あいのほんのり雪景色 )

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「あこがれ…」

2009年12月18日 | つれづれ噺
      
      小野小町           楊貴妃         クレオパトラ

世の中には「美人・美女」と称される素晴らしい女性が数多くいらっしゃる。
ご存じの通り世の三大美人といえば、小野小町か楊貴妃かはたまたクレオパトラか…およそ相場は決まっている。

そこで問いたい。もう一人、絶世の美女を忘れていませんか。つまり三大美人に次ぐ四人目の美女。
ちょっとお考え頂こう。

一口に美人・美女と言っても、その時代によって移り変わる価値観の変化につれて、美人の概念も変わってくる。平安時代と江戸時代でははっきり異なるようだ。江戸時代以来、色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪、これらが美人の条件とされた。
こういった美意識は、明治から大正に至る日本の美人像の基調となった。今でも大きくは変わらない。

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」などと、男の側から見た外観美人論が大手を振っていた頃は、どうせモテないやっかみ半分で、自分なりの美人基準を設けていたように思う。見かけの華やかさ・調子の良さよりも内面的美人を追いかける気持ちが強かったことを思い出す。

性格がよく心優しい・知性にあふれ情がある……単にこんな言葉を追いかけていただけかも知れない。好意を抱く女性は全てこの条件を満たしているかの如き錯覚を起こしていたのも事実のようだ。
何のことはない、惚れた目で見りゃ……となってしまう。

男のエゴで言わせてもらうなら、「いい女」「素敵な女性」「美人・美女」それぞれ受け止める感情に微妙な違いがある…などということが、生意気なようだが少し分かってきた気がする。

さて、この世の四大美人の四番目は「あんたのカアちゃん」なんだとさ!!

断っておくが、このお話は某大学講師の講座で学んだ美人論を、少しの独断と偏見を加味してアレンジしたものである。全てがyattaro-独自の考えではないことを強調しておきたい。と弁解しておこう。 さてせがれのお嫁さんはどのタイプだったのだろう。

 
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「尻に火がついて…」

2009年12月17日 | 季節の移ろい・出来事
ちょっとうつむいていたら早くもお尻に火がついた。
年賀状の追い込みに入らなくっちゃ…。と意気込みは大した物だが、実は今日やっとその気になって走り出した。
世間ではもう、年賀状投函を受け付け開始だという。

やれやれやっとこさ、200枚の宛名書きを、全てパソコンの手を借りて仕上げたところだ。
さて問題は年賀状の中身だ。どうやって書こう…何を主眼に書こう…あれこれ迷う。

そう言えば、昨年は年賀状の発送を控えたのだ。ということは2年ぶりの作業である。要領が少し記憶の中から薄れかけている。
昨年は悲嘆に暮れながら、普段の5割り増しの枚数の喪中葉書を、パソコンに頼りながらであるが全てオリジナル葉書をしたためた。

その意味では、今年は晴れて年賀状が発信できる。これは喜ばしいことだ。
ところでこの年賀状。どっちが表か?と聞かれたら、つい謹賀新年と書いてある側と答えそうである。それが違うのだ。飽くまでも葉書の表は住所氏名を書く宛名面が表。本文を書く側は裏面なのである。忘れないでおこう。

パソコンの力を借りるとはいえ、中身はしっかり吟味した結果である。それでもやはり、手書きのコメントは、たとえ少しでもいい書き添えたい。となると25日までに間に合うかどうか。

虚礼だ・反エコだ…との議論も聞こえるが、年に一度「生きていますよ~~」というメッセージを送ることに大きな意義を求めてしまう。日本人の手紙文化のひとつであるし、自分自身の年間恒例行事のひとつでもある。大事な大事な行事である。

猶予はならぬ。どうせなら元日に先方の手許に届けたい。前を向いて鼻息荒く……。
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「愛唱歌」

2009年12月16日 | つれづれ噺
 

師走半ば。 例年になく、華やかさが陰を潜め静かに淡々と時間が流れていく気がする。
それでもこの時期恒例の、大晦日紅白歌合戦の話題がやたら目に付く。

普段お目にかかったことも聞いたこともない歌手が、虫干しの如く出てきて、派手なパフォーマンスを見せるのがいささか食傷気味。などと言いながらやっぱりテレビを覗き込む…という不思議な番組。

もっともこの一年に1曲や2曲お目当ての歌もある。それがどのような扱いを受けるのか確かめたくて、ついつい他のも見てしまう…という調子かな。
とかなんとか言いながら、一方では、NHKIDを活用、紅白招待の応募だけはしておいた。全国30組60名の当選だから、宝くじよりもっともっと確率は低い。

それでも出さなきゃ始まらない…とばかりに。バッカじゃなかろうか…との声が聞こえる。

誰が名付けたのか、野球力・人間力・政治力・・・何でもかんでも○○力…と力という字をくっつければいいという風潮にある昨今。紅白も「歌の力」ときた。
もっともこの歌の力という言葉は、詩の持つ意味・曲の流れなどが、人々の琴線に触れ、心動かされる効果を発揮したときに、古くから用いられた言葉ではある。

その歌を聴くことによって、なんかしら心動かされ、慰められ、明日への活力が涌く…そのように、人間を揺り動かす力を秘めた歌の力。これまでにも何曲かお世話になってきたなー。
その中でも二人を選びなさい…と言われたら…ウーン…迷いながらも、古くは「鶴田浩二」そしてこの頃では「すぎもとまさと」か…。
「吾亦紅」もうしばらく歌い続けたい愛唱歌の一曲ではある。
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「冬のバナナ」

2009年12月15日 | 季節の移ろい・出来事
              

久しぶりに挑戦したお城山ウォーキングの、登り口の横に芭蕉が何本か生えている。
冬の寒さにも負けず、背丈は2~3mまで成長し、更に1~1.5m・幅50cm程の大きな葉を、青々とつけている。葉っぱの付け根の茎からは、子象の鼻のようにギザギザに細く伸びた花茎がある。
その先っぽにハスの花のつぼみを思わせる花が着いているのが見える。
その根本付近にはバナナの小型を思わせる青い実がいっぱい付いている。

英語名をジャパニーズ・バナナと言う。が、原産は中国といわれている。花や果実はバナナとよく似ている。熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東より南では結構あちこち露地に生えている。

バナナの小型に似たその実は観賞用として用いられる。一見食べられそうにも見えるが食用には向いていない。

バナナ・バナナと喜ぶ孫に、こんな小難しい理屈を並べても仕方がない…と思いながら、本物との違いを、いつかは教えて行かなければ…とつい思ってしまう。

我が子に対してはどうだったのだろう。父親の役割として施す最低限の教育はしてきたように思う。それほどおろそかにはしてこなかったと思いたい。が、途中で、もう大人なのだから…という安易な気持ちと、しっかりしてくれるだろう…という願望がごっちゃになって、厳しさには欠けていたのかな。

なんだかんだ言っても、人にはそれぞれの道があり、生き方がある。
それを、本人以外がとやかく言うべきではないし、ましてや大人の自主性に任せるのが周囲の者の思いやりなのかも…。
あれこれ割り切れぬ思いはあるが、最終的には、親は子どもの応援団長である。

幾つになろうと彼は私たちの息子である。
私たちは彼の親である。新たな幸せを探す応援をソーッとジッと見つめよう。

        ( 写真: バショウにぶら下がる冬バナナ )
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「師走、岩国城」

2009年12月14日 | 家族・孫話
週明けから寒くなると脅された天気予報が、いい方に外れてもったいないようなお天気。
ヨーシッ!思い切って久しぶりのお城山ウォーキング。颯爽…?と出かけた。

やっぱりええなーー。森林浴・冷やっとしたシットリ空気・目をさす木漏れ日。
時折舞い上がる枯れ葉。踏みしめる落ち葉。

やっぱりこれだ、気分転換はこれに限る。この素晴らしさを忘れかけるほどご無沙汰していた登山道。あの取り付きの急な坂が、遠慮なしに大きな荒い息を誘う。

少しペースを落とす。ゆっくり大地を・落ち葉を踏みしめながら登る。
頭の中をいろんな思いが駆けめぐる。

こんな能天気なおとこでも、たまには思案にあぐねることもある。
頭の中が、堂々巡りしてなんともやり切れぬ思いをすることもある。ということは、間違いなく生きている。悩みを感じたり、それに立ち向かおうとする気力が残っていることにわずかな自信を持つとしよう。

てなことを考えながらお城の麓に着いた。抜けるような冬の青空に天守閣がそびえている。 真っ赤に熟れた実がクロガネモチの大木を覆う。その見事さを裾模様にしたような天守閣。 気持ちが洗われる。大きく何度も深呼吸。

現実からの逃避…そんな大げさでもない。でももし逃げられるなら逃げたい。でもそれでは解決にならない。ジックリ受け止めるしかない。 親となった以上、こんな試練も受け入れて、乗り越えさせるアドバイザーになろう。なれるかなー。

       ( 写真: 掛け値なし、見事なクロガネモチの向こうに、華麗な天守閣 )
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「年を忘れて…」

2009年12月11日 | 趣味・・エッセイ
      

12月中旬。忘年会の真っ最中…と思いきや、駅前の夜はユーレイが出そうなほど静かで薄気味悪い。冬のユーレイもあまり様にならないが、そんな薄ら寒さを感じる。
雨でも降った日にはそれこそ、目も当てられないほどの人気の無さ。

そんな雨の夜を、予定通り同好会忘年会を楽しんだ。
人通りが少なかろうが、雨が降っていようが、ひとたび席に着き、乾杯の声がかかろうものなら、全てを忘れ、自分の年までも忘れて、笑い・叫び・早々の二次会カラオケ…とつながる。

そうか…忘年会というのは、「今年一年の諸々を、お酒とおしゃべりで洗い流し、新たな気持ちで来る年を迎えるひと区切り」という定番の考え方がある。一方で、自分の年も忘れるくらい、賑やかにはしゃいで時間を過ごす…という意味を見つけた思いがする。

それにしても、何かしら静かな年の暮れではある。やはり景気の低迷・ボーナスカット・雇用不安などなど、色んな社会情勢が、大きな暗い影を落としているからだろうか。
それにしても、昨年までは、11月下旬から始まる忘年会の予定が、少なくとも4回や5回はあった。多いときは、またかね……などとヒンシュクを買ったことも度々。

幸か不幸か、今年は少ないとき時よりもっと少なく、最少記録となった。
こうなると、近くの姉妹や姪などを集めて、自己流の忘年会を開いてみたくなる。

大して酒も飲めないくせに…。 と言いながら、これまで自分を評価してきた下戸という言葉を改めたい。
大酒飲みを上戸という。それに対して少ししか飲めないので単純に下戸と言ってきた。しかし、下戸とは酒の飲めない人を言う。ならば、私などは中戸と言うのが当たっているのだろうか…。言葉に響きは今イチだねー。

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「ふるさと野菜便」

2009年12月10日 | つれづれ噺
素朴な宅配便が届いた。
クロネコでもペリカンでもない、佐川急便でもない。 本人直接配達のふるさと便。
過疎の一途をたどる山あいの集落で、実家を守る義兄が細々と作った野菜とゆずなどが、自らの運転するクルマで届けられた。

現在住んでいるところからクルマで30分・40分走らなければ病院らしい病院がない。
専門医などの診察となるとそれはそれは一日がかりの大仕事になることもある。

今日は検査のため、病院に出てくる日だったので、その便に足を伸ばして我が家への宅配便となったという。
有り難いことだ。後10日もすれば、ゆず湯に身体を温める冬至がくる。

お言葉に甘えて、ゆずのおいしい味と香り、更にはお風呂を楽しむことにしよう。

30数年前には、サルやイノシシを脅すプロパンガスによる爆音器を仕掛けるほどの、栗拾いが出来る林が3箇所あった。マッタケは素人の私でも見つけられるような山もあった。

今はない。山はあるが栗拾いは出来ない。手入れ作業や経費がが半端ではない。その上に、サルやイノシシがひとたび味を覚えたら、人間には残してくれない。 マッタケは、自分の山なのに、他人が入り込んで採っていく。注意しようものならこちらの身が危ういという本末転倒の世の中。

ふるさとの魅力が一つまたひとつ減っていく。 ついには、老いる義兄夫婦に、町中のマンションでも心配しなくてはならなくなる。そう遠い話ではない。
今せいぜい、ふるさと野菜便の恩恵に預かっておこう。

残念ながら、近い将来なくなるのだから…。

          ( 写真: 届いたばかりの、ゆず・里芋・ネギなど )

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「食欲旺盛」

2009年12月09日 | 家族・孫話
日に日にズッシリ重くなる。ウーァウーァ声を出して呼びかける。とろけるような笑顔で誘う。誰に抱かれていても、ジジの顔を見ると取り敢えず両手を広げて抱っこをねだる。ツボを心得ているかの如く振る舞う孫の三男坊、悠雅君。

7ヶ月目を迎えた頃から、スプーンによる離乳食の練習開始。
あれから2週間、今ではスプーンが二つも入りそうな大きな口を開けて待つようになった。
その目は真剣そのもの。少し間をおくと大きな声が飛ぶ。

それでも、ミルクはミルクでちゃんと飲ませなければいけないのだという。
お腹を満たせばいいというものではない。「栄養のバランスを考えなさい」ということらしい。

短いながらも、プリンプリンの弾力性ある足の感触。
あの脚力で歩行器も大方自由自在。すでに自宅玄関土間への撃墜も体験済み。
おでこと鼻の頭の軽い打撲で事なきを得た。が、ここは一発、保護者に対して目から火が出るほどの説諭を……。

世の中には幼児の虐待などという考えられない不祥事が後を絶たない。
児童相談所への相談件数、昨年は過去最多の4万2千件を越えるという。
がんぜないおさな子に何の罪があろうか。何本・何十本・何千本もの手が支えてくれる今の世の中で、保護すべき親が自らの手で我が子をいたぶる……。
どう考えても信じられないことの一つである。

「子どもは夫婦のかすがい」に始まって、家の宝、地域の宝、国の宝、世界の宝であることはいまさら言うまでもない。ましてや命の重みは絶対的であり、何人たりとも阻害してはならない。

命を宿した責任は大人にある。単純に・素朴に・愚直に、幼い命を守り抜き育て上げることこそ、責任を果たしたことになる。
それには、親に対する「人間としての教育」が欠かせないのかな…。  やっぱり、孫は可愛い……。
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「時の流れに…」

2009年12月08日 | 趣味・・エッセイ
母を見送って1年1ヶ月。
今なお惜別の情になんら変わりはないのだけど、時の流れという自然の摂理に助けられながら、この胸の奥に宿る母への想いが少しずつ丸みを帯びてきている。

そんな、一周忌を終えた気持ちの一端を250字にまとめてみた。


「時の流れを」      

 母の一周忌を終えた。

 母のお城であり寝室であった部屋は、今やソファーがドッカリ応接間に変身した。
 
 毎朝、起きがけにシャッターを開ける。
 人けのない寒い部屋が急に明るく生気を取り戻す。

 壁や天井に埋め込まれた母の目を感じる時がある。
 そのたびに、もっと優しく、ああしてこうして上げたらよかったのに、と頭をもたげる自責の念は相変わらずだ。
 
 ただ目の前の悲しさに追われるだけではなく、遠い昔や幅広い母の全体像を思い出すゆとりが出て来始めた。

 一年という時の流れか、気持ちは随分柔らかくなってきた。

                     (2009.12.8 毎日新聞はがき随筆 掲載)

         ( 写真: 母が好きだった「あなご飯御膳」 )

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