昔から、物の片付け方は下手だった。
いろいろなものが、自分にとっては大事なものに感じて、なかなか捨てられなかった。
だから、自分の部屋にも家の車庫にも、定年後もだいぶ多くのものが残ったままであった。
それらは、工夫しながらだいぶ片付いたのだが、まだまだいろいろなものが残っている。
今まで、第1次整理、第2次整理、第3次整理と、いろいろなものを片付け捨ててきたのだが、まだまだ残っているものは多い。
そんな自分の片付け作業の作業になればと思い、読んだのが、本書「身辺整理、私のやり方」(曽野綾子著;興陽館)である。
「もの、お金、家、人づき合い、人生の後始末をしていく」と、表紙にも背表紙にも副題がついていた。
本書は、曽野氏があちらこちらの著書やコラムなどに書いた身辺整理について書いた文章を、主張した部分だけ切り取って項目をつけ、短い10章にまとめたものである。
その身辺整理の考え方は、実に大胆であるがすっきりしている。
第1章「ものは必要な量だけあることが美しい」であれば、
・ 少しずつ始末して減らす
・ 暮らしを少しずつ狭め、軽くして行く
・ ものとの別れを深く心にかけない
ほか、基本的な構えが書いてあるが、賛同できる。
以下、第2章以下では、より具体的な整理の方法が書かれている。
第2章「身辺を整理して軽やかに暮らす」では、原稿は数万枚焼いたとか写真も数千枚断裁したことを紹介しながら、「椅子、テーブル、床は物置き場に非ず」というルールを作り家に余計なものは置かないようにしているとのこと。
第3章「服は持たない」
第4章「人間関係の店仕舞いをする」では、年賀状を出さない、盆暮れの挨拶をやめる、ダメになった人間関係を深く悲しまない、など一般の人には難しいことをどう考えてやってきたのかは、それができない人には背中を押してもらえる気がする。
第5章「食べ物は使い切り食器は使い込む」では、自分で買い物をして料理を作ることが最良のぼけ防止と主張している。
なかでも、冷蔵庫の中身を覚える効用について書いてあるところが面白い。
冷蔵庫の中身を覚えることは、機能の悪いコンピューターくらいの精度は要る。古いものから食べる、買ってあったものをうまく使えるように記憶する、容器や道具をあるべき場所におく、などということだけでも、ぼけない前からできない人がいるのだ。老年になってそれができたら大したものだ、と私は思っている。
そんなことはくだらない仕事だ。人間がみみっちいから考えることだ、などと言う人もいるだろう。しかし世間(の主に男たち)はこんな実益を兼ねたぼけ防止策をなかなか実行しないのである。
この部分には、思い当たる節があり、思わず苦笑いしてしまった。
さすがに妻はきちんとできているが、自分の場合、冷蔵庫にあるのに安いからと買ってしまったり、冷蔵庫にあるものを使わずに悪くしてしまったりすることのなんと多いことか。
以下は省略するが、第9章「死ぬときは野垂れ死にを覚悟する」や第10章「人生の優先順位を決める」は、自分が持ち続けたい思いが次々に書かれていた。
・寿命に関してだけは、深く考えない
・寿命が来て死ぬのが一番美しい
・自分だけが不幸なのではない
・明日、最期の日がきてもいいように
・人間は死ぬ日まで、使える部分を使う
・自分の晩年がいつになるかは、誰もわからない
・年貢の納めどきは自分で決める
これらの項目に書かれてあることに対しては、いちいちうなずけるものばかりであった。
かような考えをもって、90歳を越えて今なお元気な著者のしてきたことやしていることが書かれてあることだけに、説得力があった。
自分にとって難しいと感じている、ものや人づき合いについてのことは、かなり参考になった。
だが、そう簡単にはできないことも確かである。
とはいえ、著者のようにやはり自分でルールを決め、納得して自己決定していくことが大事だと再認識した。
そして、「一日に必ず1個、何かものを捨てる」とか「一日に一つだけ解決する」というような実践を続けて、少しずつでもわが身辺整理も進むようにしていきたいと思うのだ。
そんなことを思っていた私だが、じゃあ今日は何をした?
…………………(汗)