2019.4.15
長浜城です。
今頃アップしてます。
遅いやん、
お許しください。
湖北の長浜は、湖南よりちょっと遅い開花で
行った時が見頃でした♪
ビニールシートを敷いて、どんちゃん騒ぎしてる人は、無し!
そういえば、近江八幡の濠川沿いも、そうでした
長浜城は、現在 「長浜市長浜城歴史博物館」
天正期の「秀吉の長浜城」を想定して再興されました(昭和58年)
天守閣からは琵琶湖がすぐそこです。
画面左の方の遠くの岬ですが、
「彦根城」が、うっすら見えます。
(かなり、ズームしました)
実際の距離は、15km前後なんです。
長浜城の歴代城主ですが、
秀吉 天正5年(1577)頃 長浜城完成
天正10年 柴田勝家の甥、勝豊
天正13~18年 山内一豊
その後 湖北は荒廃し、石田三成(佐和山城)の支配下となる
元和元年(1615) 長浜城は湖北支配の役割を彦根城に譲り
その使命を終えた
石垣や櫓材は彦根城や長浜大通寺に運ばれる
と、長い歴史をつないできました。
戦国時代の湖北では、戦国武将の有名どころが次々と旗を挙げていたのですね。
「真田丸」 の時、築城となると、戦の実戦の要として、守りをがっちり固められる、
山や川が自然の要塞になる所を選んだようですが、
琵琶湖周辺では、琵琶湖という水運の発達した所(水辺)が多いように
思えるのは、私の勘違いでしょうか…
戦いが、少なくなっていたとも思えませんしね。
さて、難しい話は私には無理なので、歴史作家の
「磯田道史さん」
のお話を聞いて頂けますとバッチリかと。
長浜城石垣根石
殆ど、当時のものは残っていない長浜城ですが、
豊(ほう)公園がお城の横にあるのですが、そこには石垣の一部らしきものを見ました。
↑この石は正真正銘、残っていたんでしょうね、ヨカッタ(@_@。
この石なんですが、私は天守から降りてここへ来て、見つけ、
この石を写したら、次の所へ行こッと思っていました。
で、石に近寄ったら、向こうから年配の男性ふたりも近寄って来られます。
あっという間に、この石に座って、
『あ~しんど。』
そのまましばらく。
この日は気温も上昇、疲れておられた様子です。
そばにいる私に、話しかけて来られます。
どうやら、写真のためにじっとそばにいるとはお気づきない!
何分経ったでしょうか…
『ほな、さいなら。』
ご休憩も終わったようで、お城へと歩いて行かれました(・。・;
そして、
次の所へとまた