kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

長浜城

2017-05-01 16:48:00 | 滋賀

 

 

                                                 2019.4.15

長浜城です。

今頃アップしてます。

遅いやん、

お許しください。

 

 

湖北の長浜は、湖南よりちょっと遅い開花で

行った時が見頃でした♪

 

ビニールシートを敷いて、どんちゃん騒ぎしてる人は、無し!

そういえば、近江八幡の濠川沿いも、そうでした

 

 

 

長浜城は、現在 「長浜市長浜城歴史博物館」


天正期の「秀吉の長浜城」を想定して再興されました(昭和58年)

 

 

天守閣からは琵琶湖がすぐそこです。

画面左の方の遠くの岬ですが、

 

 

「彦根城」が、うっすら見えます。

(かなり、ズームしました)

 

実際の距離は、15km前後なんです。

 

長浜城の歴代城主ですが、

 

秀吉 天正5年(1577)頃 長浜城完成

天正10年 柴田勝家の甥、勝豊

天正13~18年 山内一豊

 

その後 湖北は荒廃し、石田三成(佐和山城)の支配下となる

元和元年(1615) 長浜城は湖北支配の役割を彦根城に譲り

その使命を終えた

 

石垣や櫓材は彦根城や長浜大通寺に運ばれる

 

と、長い歴史をつないできました。

 

戦国時代の湖北では、戦国武将の有名どころが次々と旗を挙げていたのですね。

 

「真田丸」 の時、築城となると、戦の実戦の要として、守りをがっちり固められる、

山や川が自然の要塞になる所を選んだようですが、

琵琶湖周辺では、琵琶湖という水運の発達した所(水辺)が多いように

思えるのは、私の勘違いでしょうか…

戦いが、少なくなっていたとも思えませんしね。

 

さて、難しい話は私には無理なので、歴史作家の

「磯田道史さん」 

のお話を聞いて頂けますとバッチリかと。

 

長浜城石垣根石

 

殆ど、当時のものは残っていない長浜城ですが、

豊(ほう)公園がお城の横にあるのですが、そこには石垣の一部らしきものを見ました。

↑この石は正真正銘、残っていたんでしょうね、ヨカッタ(@_@。

 

この石なんですが、私は天守から降りてここへ来て、見つけ、

この石を写したら、次の所へ行こッと思っていました。

 

で、石に近寄ったら、向こうから年配の男性ふたりも近寄って来られます。

あっという間に、この石に座って、

『あ~しんど。』

そのまましばらく。

 

この日は気温も上昇、疲れておられた様子です。

そばにいる私に、話しかけて来られます。

どうやら、写真のためにじっとそばにいるとはお気づきない!

何分経ったでしょうか…

 

『ほな、さいなら。』

 

ご休憩も終わったようで、お城へと歩いて行かれました(・。・;

 

そして、

 

次の所へとまた

 

 

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