『自分の目で見て確かめられるものでなければ信じない、という人がいます。しかし、それでは大事なものを見落としてしまいはしないでしょうか。
私たちがふだん聞いている音は、自分の耳に合ったごく一部の音にすぎず、周波数がうんと高かったり低かったりすると、聞こえません。自分の耳に聞こえる音が、すべてではないわけです。それと同じで、この世界は私たちには感受できない広大な広がりをもっています。
仏さまのお姿は私たちの肉眼では見えませんが、教えどおりに行じると、仏さまの存在がはっきりと見えてきて、その大きな懐に抱かれている自分に気づかずにいられません。 信仰をしている私のいちばんの幸せは、仏さまがいつも一緒にいてくださるのを感じられることです。その幸せを、私は最近、さらにしみじみと思わずにいられないのです。
ですから、生きているうちは仏さまのみ心のままに生きてなすべきことをなし、ご用が済めば仏さまのもとへ帰らせていただくのだ、と私は心に決めています。これほど安心な生き方はないと思うのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より