迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

彼方なる「人間賛歌」。

2018-06-15 19:05:19 | 浮世見聞記
國學院大學博物館の「狂言─山本東次郎家の面─」展を観る。


能面展は玄人素人こき混ぜてよく行はれるが、狂言の面ばかりを展示した企画はなかなか珍しく、興味をもって出かける。

精選された約二十点の狂言面が横一列に並んだところはなかなか壮観、猿楽面との大きな違ひは、動物の顔を模した面──狸、狐、猿など──があることだらう。

神や人間を模した面は、その表情の一瞬を切り取って愛嬌で磨きあげた、なんとも朗らかな風合ひが漂ふのに対し、動物の面は表情が写実で眼(まなこ)は鋭く、ヒヤリとさせるものすら感じる。


そのほかにも、肩衣や中啓(扇)、山本東次郎家の初代が時の大蔵流宗家から伝授されたテキストの実物なども紹介され、企画内容に深みを加へる。


私は手話狂言で「蟹山伏」を観て以来、そこに登場する“蟹の精”が掛ける「賢徳(けんとく)」といふ面が大好きだが──もちろんこの企画展でも展示されてゐる──、それはかのテキスト「昔語り 坤」によれば、能「八島」などの武将に用ゐる“平太(へいだ)”をくずしたのださうで、そこに庶民喜劇である狂言の感覚が、よく表れてゐる。


──もっとも庶民喜劇といったところで、初代がもともと武士だったことを意識してか、現在演じられる山本東次郎家の狂言は四角四面で愛想が無く、私はあの顰めっ面な藝風が好きではない。

さりながら、明治36年にイギリス人技師ガイスバーグによってレコードに収められた二代目山本東次郎の音声を聴いてみると、現在の藝風とは似ても似つかないほどに柔らかくてほのぼのとしており、思わず耳を疑ふ。

どうやらこの録音より後のどこかの時代で、消滅した“武家式楽”の幻を追ひ求めるあまり、藝風が硬質化したものと見ゆる。



むしろ私は、武家式楽の昔が未だに忘れられないでゐる玄人衆のそれより、完全に庶民の手で守り伝へられてきた黒川能や大須戸能などのそれに、我が国の傳統藝能の源流を、見出すのである。
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