「あ、そうだ……。近江さん、よろしければ連絡先を交換しませんか?」
仕事ではない場面で、自分からそう申し出た女性は、彼女が初めてだった。
いちおう僕は、仕事用に使っている番号の方で、交換した。
「もっとも、あのショッピングモールへ行けば、またお会いすることがあるかもしれませんね」
僕はそう言いながら、金澤あかりから届いたアドレスを登録していると、
「その警備員なんですが……」
と、彼女はすまなさそうな顔をした。「わたし、今日付けで退職なんです」
「え……?」
僕は携帯電話の画面から、顔を上げた。
瞬間、脳裏にあの時の情景がよみがえる。
あれだけ危険な目に遭ったのだから、無理もないか……。
世の中はすべて、命があらばこそ。
しかし、金澤あかりの言葉は、僕の想像とは違った。
「規則違反、で」
「規則違反?」
僕が思わずおうむ返しに問うと、金澤あかりはストローで氷をゆっくりかき回しながら、小さく頷いた。
「警備員の仕事は、犯罪を抑止することが大原則で、犯人を捕縛することではないんです……」
あっ……。
僕はあのとき、金澤あかりが肩にかけた組紐で、暴漢が再び暴れないように縛り上げていたことを思い出した。
しかしあれは、やむを得ない処置ではなかったか?
「それから、警備会社の指令センターへ、すぐ連絡しなかったことも、ミスとされました……」
僕は思わず、
「そんなことが出来る状況ではなかったでしょう」
と呆れたが、金澤あかりは諦めきったような寂しい笑みを口許に浮かべて、
「とにかく、マニュアル通りに対処できなければ、叱責の対象になるんです」
バカらしい、と僕は叫びそうになった。
あのとき、金澤あかりは凶刃の犠牲となる、一歩手前だった。
事実、相方の男性警備員は刺されて重傷を負わされたのだ。
それでも、マニュアル通りに対応しろ、と?
現場の実情に即していないマニュアルなんて、なんの意味があるのだ。
呆れて物も言えない、とはこのことだ。
「今日の授与式が、警備員の制服を着た最後です。……まあ、意地みたいなものですかね。わたしはそれでもベストを尽くしたつもりだ、という」
「最善の方法でしたよ」
僕は力強く言った。
マニュアルがどうなっているのか知らないが、あの状況でそんなものに従っていたら、犠牲者はもっと増えていたに違いない。
「あのあと上司(うえ)から、マニュアルに則った行動がなぜとれかなったと、とても叱られまして……。現場の判断より、現場から遠く離れたところでデータだけを見て作ったマニュアルのほうが大事なんて、もうなんか、命懸けだったことがバカらしくなって……。それで辞めよう、と」
「ああ……」
僕もアルバイトに明け暮れていた二十代の頃、たしかにマニュアル信奉な現場担当者がいた。
そうでなければ、自分が上役に睨まれるからだ。
上にヘコヘコ、下にビシバシでなくては生きていけない組織というものに、僕は雇われ人の悲哀を見たものだった。
僕は先ほど金澤あかりが、自分の技(うで)で生きている人が羨ましいと言ったわけを、ようやく理解した。
「それで先日、退職願を出したんです。このあと制服を会社に返しに行って、明日からはまた、新たなバイトを探し、です」
そう微笑んでスマホを仕舞う金澤あかりに、
「金澤さんは、学生なんですか?」
彼女は、いいえと首を振った。
「でも、定職には就いていません。……だから、フリーター、ということになるのかな?」
金澤あかりは、まだ確とした人生設計を、立てかねているタイプなのかもしれない。
僕は駅の改札口で、彼女と左右に別れた。
その際に彼女はもう一度、
「助けていただいて、ありがとうございました」
と丁寧なお辞儀をして、ホームへ向かって行った。
僕もホームへと歩きながら、
「また会うことなんて、あるのだろうか……?」
と、あり得そうもないことを思った。
帰宅してから、僕は試しに、金澤あかりの言っていた農村歌舞伎を、PCで検索してみた。
それは、江戸時代に江戸と京を結んでいた旧街道の宿場がおかれていた町に、確かに伝存していた。
現在は朝妻(あさつま)町というその旧宿場町のHPによると、町から程近い通称“姫哭山”の麓にある八幡神社の秋季例大祭の目玉が、その奉納歌舞伎らしい。
写真には、社殿の前面の縁側を舞台にして、素人歌舞伎の演じられている様子が、うつっていた。
しかも縁側は、はじめから舞台として使えるよう、奥行きが深く造られているのだった。
珍しい社殿があるもんだ……。
僕は画面を食い入るように見つめた。
役者は昔から八幡宮の氏子たちがつとめるしきたりで、しかも“女人禁制”が守られていると云う……。
「おや?」
僕は首をかしげた。
金澤あかりは十三歳のときに、一度だけ奉納歌舞伎に出たと言っていた。
しかし、この文面だと、女姓は出られないことになっている。
では、この“女人禁制”とは……?
彼女は、僕に嘘を話したのか?
「いや、そんなふうではなかった……」
僕は、金澤あかりがその話をした時の、“瞳(め)”を思い出した。
なにか屈託を含んだ、複雑な表情(いろ)……。
僕はふと思い付いて、“嵐昇菊”と検索してみた。
続
仕事ではない場面で、自分からそう申し出た女性は、彼女が初めてだった。
いちおう僕は、仕事用に使っている番号の方で、交換した。
「もっとも、あのショッピングモールへ行けば、またお会いすることがあるかもしれませんね」
僕はそう言いながら、金澤あかりから届いたアドレスを登録していると、
「その警備員なんですが……」
と、彼女はすまなさそうな顔をした。「わたし、今日付けで退職なんです」
「え……?」
僕は携帯電話の画面から、顔を上げた。
瞬間、脳裏にあの時の情景がよみがえる。
あれだけ危険な目に遭ったのだから、無理もないか……。
世の中はすべて、命があらばこそ。
しかし、金澤あかりの言葉は、僕の想像とは違った。
「規則違反、で」
「規則違反?」
僕が思わずおうむ返しに問うと、金澤あかりはストローで氷をゆっくりかき回しながら、小さく頷いた。
「警備員の仕事は、犯罪を抑止することが大原則で、犯人を捕縛することではないんです……」
あっ……。
僕はあのとき、金澤あかりが肩にかけた組紐で、暴漢が再び暴れないように縛り上げていたことを思い出した。
しかしあれは、やむを得ない処置ではなかったか?
「それから、警備会社の指令センターへ、すぐ連絡しなかったことも、ミスとされました……」
僕は思わず、
「そんなことが出来る状況ではなかったでしょう」
と呆れたが、金澤あかりは諦めきったような寂しい笑みを口許に浮かべて、
「とにかく、マニュアル通りに対処できなければ、叱責の対象になるんです」
バカらしい、と僕は叫びそうになった。
あのとき、金澤あかりは凶刃の犠牲となる、一歩手前だった。
事実、相方の男性警備員は刺されて重傷を負わされたのだ。
それでも、マニュアル通りに対応しろ、と?
現場の実情に即していないマニュアルなんて、なんの意味があるのだ。
呆れて物も言えない、とはこのことだ。
「今日の授与式が、警備員の制服を着た最後です。……まあ、意地みたいなものですかね。わたしはそれでもベストを尽くしたつもりだ、という」
「最善の方法でしたよ」
僕は力強く言った。
マニュアルがどうなっているのか知らないが、あの状況でそんなものに従っていたら、犠牲者はもっと増えていたに違いない。
「あのあと上司(うえ)から、マニュアルに則った行動がなぜとれかなったと、とても叱られまして……。現場の判断より、現場から遠く離れたところでデータだけを見て作ったマニュアルのほうが大事なんて、もうなんか、命懸けだったことがバカらしくなって……。それで辞めよう、と」
「ああ……」
僕もアルバイトに明け暮れていた二十代の頃、たしかにマニュアル信奉な現場担当者がいた。
そうでなければ、自分が上役に睨まれるからだ。
上にヘコヘコ、下にビシバシでなくては生きていけない組織というものに、僕は雇われ人の悲哀を見たものだった。
僕は先ほど金澤あかりが、自分の技(うで)で生きている人が羨ましいと言ったわけを、ようやく理解した。
「それで先日、退職願を出したんです。このあと制服を会社に返しに行って、明日からはまた、新たなバイトを探し、です」
そう微笑んでスマホを仕舞う金澤あかりに、
「金澤さんは、学生なんですか?」
彼女は、いいえと首を振った。
「でも、定職には就いていません。……だから、フリーター、ということになるのかな?」
金澤あかりは、まだ確とした人生設計を、立てかねているタイプなのかもしれない。
僕は駅の改札口で、彼女と左右に別れた。
その際に彼女はもう一度、
「助けていただいて、ありがとうございました」
と丁寧なお辞儀をして、ホームへ向かって行った。
僕もホームへと歩きながら、
「また会うことなんて、あるのだろうか……?」
と、あり得そうもないことを思った。
帰宅してから、僕は試しに、金澤あかりの言っていた農村歌舞伎を、PCで検索してみた。
それは、江戸時代に江戸と京を結んでいた旧街道の宿場がおかれていた町に、確かに伝存していた。
現在は朝妻(あさつま)町というその旧宿場町のHPによると、町から程近い通称“姫哭山”の麓にある八幡神社の秋季例大祭の目玉が、その奉納歌舞伎らしい。
写真には、社殿の前面の縁側を舞台にして、素人歌舞伎の演じられている様子が、うつっていた。
しかも縁側は、はじめから舞台として使えるよう、奥行きが深く造られているのだった。
珍しい社殿があるもんだ……。
僕は画面を食い入るように見つめた。
役者は昔から八幡宮の氏子たちがつとめるしきたりで、しかも“女人禁制”が守られていると云う……。
「おや?」
僕は首をかしげた。
金澤あかりは十三歳のときに、一度だけ奉納歌舞伎に出たと言っていた。
しかし、この文面だと、女姓は出られないことになっている。
では、この“女人禁制”とは……?
彼女は、僕に嘘を話したのか?
「いや、そんなふうではなかった……」
僕は、金澤あかりがその話をした時の、“瞳(め)”を思い出した。
なにか屈託を含んだ、複雑な表情(いろ)……。
僕はふと思い付いて、“嵐昇菊”と検索してみた。
続