迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ごゑんきゃうげん7

2017-03-25 05:02:54 | 戯作
嵐昇菊という歌舞伎役者は、たしかに五代目まで存在していた。

三代目までは上方、すなわち関西の歌舞伎役者で、四代目、すなわち金澤あかりの祖父の代に、東京へ出てきた。

しかし、上方の芸風が東京の水に合わなかったこともあって人気が出ず、失意のうちに病没してから名門“緒室屋”は低迷し、五代目、すなわち金澤あかりの父の代でついに廃業、名門“緒室屋”の芸脈は断絶する―

すべて、彼女の話しの通りだ。

さらに検索すると、五代目嵐昇菊のポートレートも出てきた。

女形だったと云うだけあって、柔和な顔つきをした美男子だ。

しかしその容貌には、娘の金澤あかりとの共通点が、まったく見出せなかった。

「もしかしたら彼女は、母親似なのかな……?」

彼女の母親は、素人歌舞伎が奉納される八幡宮の、宮司の娘ということだった。

つまり金澤あかりは、嵐昇菊が歌舞伎役者を廃業したのちに生まれた娘、ということになる。

女人禁制の奉納歌舞伎に出られたのも、かつての歌舞伎役者の子だからか……?

そんなことを考えながら検索を続けるうち、もう一つの記事に行き当たった。

それは、八幡宮の祭礼の由来を述べた記事だった。

記者は、下鶴昌之という土地の郷土史家を名乗る人物だ。

いかにも素人研究者らしい、蘊蓄のダラダラと続く文章を要約すると―

朝妻町、かつて朝妻宿がおかれていた旧朝妻村の一帯は、戦国時代には朝妻氏という地元の豪族が治めていた。

その居城は、現在の八幡宮の背後にそびえる山にあった―いわゆる山城だった。

やがて織田信長の軍勢に攻められると、当主の姫君は敵方に囚われることを拒んで自害、朝妻一族は炎上する城と運命を共にした。

以来、山城跡からは、夜な夜な姫君の亡霊のすすり泣く声が聞こえるようになり、里の人々は山城跡をいつしか、“姫哭山(ひめなきやま)”と呼ぶようになった。

そして麓には慰霊のための神社を建て、朝妻氏滅亡の命日には、慰霊祭を行うようになった。

それが、現在の秋季例大祭の起こりである―

慰霊ならば寺を建てそうなものだが、神仏習合だったこの時代、神社という例もあったのだろうか。

なんとなく無理にこじつけたような感じが、なくもない。

夜な夜なお姫様の亡霊の、啜り泣きが聞こえてくる―

小泉八雲の怪談じみた、いかにも田舎の伝説らしいお話しだ。

なんであれ、僕はそこに興味をおぼえた。

絵の題材に使えそうだな……―

それこそ、一巻の絵巻物に仕立ることが出来そうだ。

また、珍しい造りをした社殿で奉納される、農村歌舞伎も見てみたいものだな―

下鶴氏の記事によると、奉納は毎年九月三十日に行われるらしい。

僕はカレンダーを見た。

ちょうど、あと半月後。

女人禁制とやらの奉納歌舞伎。

それに出たと云う金澤あかりの、なにか屈託を含んだ瞳(め)。

また、夜な夜なお姫様の啜り泣きが聞こえてくると云う山―

思いを馳せれば馳せるほど、僕は持ち前の好奇心を刺激されるのだった……。


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