現在の若い日本人はボキャブラリーに乏しい、と言われるようになって久しい。
いつであったか、会話のなかで何の気無しに、“のべつ幕なし”という表現を使ったら、ある下請けレベルの若い映像作家に、
「今時そんな言葉つかいませんよ」
と笑われて、その意外さにショックを受けたことがある。
また、ラジオのDJをつとめた若い女性タレントが、どこかで何かの美術展を見に行ってえらく感動したらしく、その事をリスナーに一生懸命伝えようとしているのだが、適当な言葉が頭に浮かばないために、
「だから…、その…、なんて言うか…、とにかく…、すごかったわけ…、う~ん…、みんなわかるかなぁ…」
を繰り返すばかり。
あなたにボキャブラリーが無いことはよくわかりました、と皮肉ってやりたかったものだ。
ラジオが出たついでに言えば、FM局の音楽番組で、自分の“おもい”を歌詞へストレートにぶつけた楽曲を、よく耳にする。
しかし、表現力が貧弱である故に、つまらない人の繰り言のように聴こえてきてしまう。
語彙力の低下は、確かに事実のようだ。
だがそれは、永田町あたりのセンセイたちにも言えること。
先日コメントを寄せてくれた“ししまる”さんの言葉にもあったが、横文字はスラスラと出て来ても(どうしてセンセイたちは演説などで聞いたこともない横文字を使いたがるのだろう)、自分の国の言葉は満足に読めず、喋れず、その総仕上げがお粗末な“大臣辞任”。
若い日本人ばかりを責めるのは、酷かもしれない。
私などは仕事柄、古い日本語に接する機会が多いわけだが、その度に先人たちの深い観察眼を踏まえた豊かな表現力に、舌を巻いてしまうことしきり。
しかしそれは取りも直さず、自分だって日本語を知らないニホンジンに他ならない、ということだろう。
いつであったか、会話のなかで何の気無しに、“のべつ幕なし”という表現を使ったら、ある下請けレベルの若い映像作家に、
「今時そんな言葉つかいませんよ」
と笑われて、その意外さにショックを受けたことがある。
また、ラジオのDJをつとめた若い女性タレントが、どこかで何かの美術展を見に行ってえらく感動したらしく、その事をリスナーに一生懸命伝えようとしているのだが、適当な言葉が頭に浮かばないために、
「だから…、その…、なんて言うか…、とにかく…、すごかったわけ…、う~ん…、みんなわかるかなぁ…」
を繰り返すばかり。
あなたにボキャブラリーが無いことはよくわかりました、と皮肉ってやりたかったものだ。
ラジオが出たついでに言えば、FM局の音楽番組で、自分の“おもい”を歌詞へストレートにぶつけた楽曲を、よく耳にする。
しかし、表現力が貧弱である故に、つまらない人の繰り言のように聴こえてきてしまう。
語彙力の低下は、確かに事実のようだ。
だがそれは、永田町あたりのセンセイたちにも言えること。
先日コメントを寄せてくれた“ししまる”さんの言葉にもあったが、横文字はスラスラと出て来ても(どうしてセンセイたちは演説などで聞いたこともない横文字を使いたがるのだろう)、自分の国の言葉は満足に読めず、喋れず、その総仕上げがお粗末な“大臣辞任”。
若い日本人ばかりを責めるのは、酷かもしれない。
私などは仕事柄、古い日本語に接する機会が多いわけだが、その度に先人たちの深い観察眼を踏まえた豊かな表現力に、舌を巻いてしまうことしきり。
しかしそれは取りも直さず、自分だって日本語を知らないニホンジンに他ならない、ということだろう。
「愛」を使うことなく
自分の言葉で
「愛」を
伝えることができたら
その人は立派な詩人
「詩人」
憧れの響きです。
何を読めばいいのか分からなかった
高校生のとき
とりあえず
図書室で
文庫本の「ゲーテ詩集」を借りて読みました。
言葉が踊っていました。
今思えば
原文と翻訳された日本語の
ニュアンスがどの程度同じなのか
わからないのですが
とにかく
刺激的でした。
山村暮鳥の詩に
ひらがなの美しい絵をみました。
今の自分から
なくなってしまったものを
懐かしく思い出します。
このごろ
自身も含めて
自分の言葉を持っている人が
どれほど居るのでしょうか。