迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

偽佛偽會。

2023-11-26 18:30:00 | 浮世見聞記




橫濱能樂堂で、奈良東大寺の修二會──いはゆる“お水取り”に取材した喜多流の能「青衣女人」を觀る。



明治十八年(1885年)に淺草の浄土真宗の寺に生まれ、壮年期には新聞記者、晩年は能樂研究の大學教授として活動する一方、幼少から喜多流宗家の弟子として能樂師の修行もしてゐたと云ふ土岐善麿が、東大寺の依頼を受けて昭和十八年(1943年)に發表した新作能云々、



東大寺修二會を聴聞するため訪れた旅僧が過去帳を讀み上げると、青衣をまとった女人が病悩の姿で現れるが、やがて觀世音の功力によって成佛する──

やはり東大寺修二會に取材した新作の歌舞伎舞踊で、一人の僧の前にかつて戀人だった女性が青衣姿で現れ、彼女がもたらす煩悩とのせめぎ合ひの果てにみごと解脱する、と云った筋の「達陀」を學生時分に觀たことがあるので、ぜひ今回は能のはうも觀ておきたいと樂しみにしてゐたが、當能樂堂の“藝術監督”氏なるものが、曲の舞薹である修二會の雰囲氣を再現したいと余計な演出を加へたために、却って曲の印象が散漫になるとんだ大失敗をやらかす。

一曲の始まりと、後場の前に東大寺の本物の僧が三人登場し、本場の聲明をやって見せるのだが、數珠をジャラジャラ揉んで前屈したりのけ反ったりを延々やってゐる間、能の進行は完全に停止しており、よって舞薹上の能樂師たちは全員放ったらかしの状態となり、その場の“参加者”とはなり得てゐない。

さうして両者が乖離してゐる時點で、すでにこの企画は失敗なのである。



また雰囲氣づくりのつもりか、舞薹のまわりには蝋燭を灯してゐたが、國立能樂堂の“蝋燭能”のごとく、本當に場内の電灯を全消して蝋燭の灯りだけで演能するに非ず、結局は舞薹だけ光量を抑へて照明を當てたのでは、まったく無意味がない。

能はムダを省いたことで完成された藝能である、なにか變っことをやらうと、素人考へに余計なことはしないに限る。



今回の公演は、むしろ初めに上演された大藏流山本東次郎家の狂言「仁王」のはうが、純粋に樂しめた。

すってんてんになった博奕打の男が、友人の提案で仁王様に化けて善男善女から供物を巻き上げることに一度は成功するが、評判を聞いてやって来た足の不自由な男に縋り付かれて全てバレる話しで、最後に件の足の不自由な男が、供えた草鞋を返せと、片足を引きずり乍ら入るところでは見所(客席)が静かであったところに、“現代の認識”と云ふものをみる。











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