国立能楽堂で催された「第54回 式能」にて、金春流による「翁」を観る。
橋掛りから翁がしずしずと現れたとき、わたしはその姿から、人間にして人間ではない、“何か”を、感じた。
『能にして能にあらず』―
その所以、はじめて知る。
能楽は、見るだけではなく、“感じる”芸能でもあると、わたしは常におもう。
眼だけではなく、心で観ることも、求められる。
表面(うわっつら)の面白さだけでものを見る人間には、この曲などそれはそれは退屈な“神事”だろう。
そういう者は、たちまちにして見所から弾き出してしまう厳しさを、「白式尉」の面は秘めている。
一方で、目に見えない天上界の者を、庶民の視線で捉えたのが、大藏流の狂言「神鳴」。
“お神鳴”を擬人化し、「お前はだれだ」との訊ねに、藪医者の男が「いし(医師)だ」と答えると、それを「いし(石)」と勘違いして、「いしが喋るか」と怒ってみせるあたりに、大津絵に見る雷様のような、ほのぼのとした愛嬌を感じる。
先の手話狂言で観た「蟹山伏」といい、こういった童話的趣向の喜劇が、わたしは好きだ。
橋掛りから翁がしずしずと現れたとき、わたしはその姿から、人間にして人間ではない、“何か”を、感じた。
『能にして能にあらず』―
その所以、はじめて知る。
能楽は、見るだけではなく、“感じる”芸能でもあると、わたしは常におもう。
眼だけではなく、心で観ることも、求められる。
表面(うわっつら)の面白さだけでものを見る人間には、この曲などそれはそれは退屈な“神事”だろう。
そういう者は、たちまちにして見所から弾き出してしまう厳しさを、「白式尉」の面は秘めている。
一方で、目に見えない天上界の者を、庶民の視線で捉えたのが、大藏流の狂言「神鳴」。
“お神鳴”を擬人化し、「お前はだれだ」との訊ねに、藪医者の男が「いし(医師)だ」と答えると、それを「いし(石)」と勘違いして、「いしが喋るか」と怒ってみせるあたりに、大津絵に見る雷様のような、ほのぼのとした愛嬌を感じる。
先の手話狂言で観た「蟹山伏」といい、こういった童話的趣向の喜劇が、わたしは好きだ。