迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

どうどうたらりがらがらぴっかり。

2014-02-16 20:26:39 | 浮世見聞記
国立能楽堂で催された「第54回 式能」にて、金春流による「翁」を観る。

橋掛りから翁がしずしずと現れたとき、わたしはその姿から、人間にして人間ではない、“何か”を、感じた。


『能にして能にあらず』―


その所以、はじめて知る。


能楽は、見るだけではなく、“感じる”芸能でもあると、わたしは常におもう。

眼だけではなく、心で観ることも、求められる。


表面(うわっつら)の面白さだけでものを見る人間には、この曲などそれはそれは退屈な“神事”だろう。


そういう者は、たちまちにして見所から弾き出してしまう厳しさを、「白式尉」の面は秘めている。




一方で、目に見えない天上界の者を、庶民の視線で捉えたのが、大藏流の狂言「神鳴」。

“お神鳴”を擬人化し、「お前はだれだ」との訊ねに、藪医者の男が「いし(医師)だ」と答えると、それを「いし(石)」と勘違いして、「いしが喋るか」と怒ってみせるあたりに、大津絵に見る雷様のような、ほのぼのとした愛嬌を感じる。





先の手話狂言で観た「蟹山伏」といい、こういった童話的趣向の喜劇が、わたしは好きだ。
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