池上本門寺にて、先日の御會式ではお参り出来なかった日朝堂へ挨拶する。
失明から回復した十一代法主の奇跡には、いろいろ學ぶべきものを感じるので、ふとなにかを想った時に、いろいろと話しを聞いてもらってゐる、“相談相手”のやうなものか。
今日は衆院選の公示日云々、本門寺帰りにぶらぶら歩きした川沿ひの道に、さっそく立候補者たちの顔触れが貼り出されてゐた。
その後あちこちで“出陣式”の跡を通りかかり、私の棲む町でも、昼間に行はれたやうだ。
“選挙公約”なんてものは、いかに尤もらしいことを述べてみせるかに価値があるもので、實現させるためにあるものではない。
カオとナマエの一致するヒトに投票して、あとはどれだけ同じことをしたヒトがゐたか、刻々と移る得票數を眺めて樂しむ、さういふお祭り騒ぎへ、ひとつバカになって参加するのが、この選挙と云ふ催しの面白さだ。