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14:46 黙禱す。
夏の日の朝、今日は暑くて汗をかくだらうからと、部屋で2Lペットボトルの水をバッグに入れて、ふと師匠の遺影を見て、「自分は何やってんだろ……」と苦笑ひしたのは、あの地震よりも前の年であったな、
澁谷の繁華街の坂道の上で、可能性の無いことに可能性をかけた夏、
もふ會ふことの無いはずの人々と間近ですれ違ひ、その一人と目が合ったのは、そのさらに翌年の夏、
それらは全て、十三年前に東日本で發生した地震より、前の年であったと思ひ返す。
あの日、都内の驛前で買ひ物を済ませて外へ出た途端、そばにゐた人が「ああ、揺れてる、揺れてる!」と叫んで初めてその事に氣が付き、向かふの小さな雑居ビルが崩れんばかりにガタガタと揺れているのを目撃し、揺れが収まってから帰宅すると、食器類が床に散亂していた、あの大きなひどい地震は、私のそれまでの価値觀を大いに突き崩したが、足許がいかに揺れやうとも、私の信念はよろけなかったと、私はいまも信じる。
あの大地震がきっかけではないが、私の新しい“生き方”は、あの大地震の日を境に、本當に始まったのだ。
深い記憶は心から消えることはない。
しかし、その記憶をいたずらに引きずるのも、また違ふだらう。
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100年前、關東大震災に遭遇した画家の堅山南風はその實況を三巻の繪巻物にまとめ、序文には、
「忘れられぬものは強いて忘れやうと努力しなくともよい。唯これに對し吾等は如何なる教訓を得たか、その教訓を守って往けばよいのである。」
の一文を記した。
あの日以来、「いったい自分には何が出来るのか……?」と、自身に問ひ續けてゐた答へにやっと出逢へやうな、救はれたやうな、心強きものを得られたやうな、そんな力を貰った氣がした。