江尻宿は清水港の町であり、かつては講談浪曲、そして任侠映画でその名を馳せた、“清水次郎長親分”ゆかりの地であるわけですが、潮風香る巴川にかかる稚児橋を渡って枡形に右折した先には伸びるのは、なんともらうらぶれた風情。
町並みはきれいに整備されていますが、実際には店舗と更地跡の駐車場とがほぼ交互に並んでいる有様、却って痛々しい感じがあります。
江尻東三丁目で左折した先が、かつては宿場の中心部だったようですが、
現在は金工品を扱う会社が沿道に点在するだけで、往年を偲ぶよすがはありません。
清水駅前を過ぎて本郷町から宿場出口に近い辻地区まで来ると、瓦をのせた昔ながらの家も見かけるようになり、
町並みはきれいに整備されていますが、実際には店舗と更地跡の駐車場とがほぼ交互に並んでいる有様、却って痛々しい感じがあります。
江尻東三丁目で左折した先が、かつては宿場の中心部だったようですが、
現在は金工品を扱う会社が沿道に点在するだけで、往年を偲ぶよすがはありません。
清水駅前を過ぎて本郷町から宿場出口に近い辻地区まで来ると、瓦をのせた昔ながらの家も見かけるようになり、
ようやく宿場の名残りを見出すことが出来ます。
辻3-7で、かつての松原を平成四年に一本だけ復元植樹した「細井野松」を右手に見て宿場を出ると国道1号線に合流、その先の横砂まで 、交通騒音の激しいなかをひたすら歩いて行きます。
古い家が売り物件になっている面白い光景の先、
横砂東町13で旧道は右手に分かれ、古い家がよく残るなかを──ただしこちらは売り物にあらず───通り抜けた先で左折して、再び国道1号線に合流。
そこはかつて風光明媚で謡曲「羽衣」にも謡われた清見潟(きよみがた)、しかし現在は工業地帯としてすっかり埋め立てられて風情を喪い、またかつては美少年を多く抱えて繁盛したと云う膏薬屋がどこだったのかすら見当もつかないなか、復元された「坐漁荘」を右に見て過ぎると、その筋向かいには古刹の清見寺(せいけんじ)、
見物するには覗き賃(拝観料)がかかるとのことで、ケチ根性を発揮して素通り、江尻宿から一里二町(4.1km)の興津宿へと入ります。
しかし、きれいに整備された国道がまっすぐに伸びているだけの特徴のない光景で、戦後しばらく旅館として営業していた旧脇本陣「水口屋」も、
廃業後はかつての風情をすっかり喪っています。
この旧脇本陣にしばしば逗留した元米國軍人O・スタットラーの名著「ニッポン 歴史の宿」を読んで旅情をかき立てられるまま訪れた人は、そのほとんどが裏切られた気分になることでしょう。
それでも脇本陣からしばらく行ったところには古い家が僅かに残り、ここが昔からある町らしいことだけは、察することが出来ます。
さらに先の興津中町東信号が身延山へ通じる身延道との追分で、傍らには元禄六年と刻まれた古い道標が、
いまも遺っています。
興津宿を過ぎて興津中町東信号の先で旧道は左に分かれ、しばらく行くと駿河湾へ注ぐ興津川の橋を渡り、
薩埵峠へと入って行きます。