立石新田から烏川に沿った道を進むうち、市内循環バス「中島」バス停から28歩のところで右折、知らない人にとっては何の変哲もない、しかし確かに由緒ある道を100メートル程行くと、再び烏川の堤に行き当たります。
この堤を越えたところが、中山道二ヶ所目の渡し場、「柳瀬川の渡し」です。
川の名称は正しくは“烏川”なのですが、ここの箇所だけは何故か“柳瀬川”と呼んでいたようです。
ここは江戸中期まで渡し舟も仮橋も無かったため、旅人たちは仕方なく自力で渡っていたとか。
そこで、新町宿の小林伊左衛門と云う人が宝暦9(1759年)に幕府へ願い出て、ようやく渡し舟が認可されたと云う涙ぐましいエピソードも今は昔、現在では雑草が深く生い茂った原野地帯、かつての道筋を辿って川岸までだなんてとんでもないこと、約250メートル川上に架かる梁瀬橋から渡し場跡を見ながら(写真上)、対岸の着点まで迂回しなくてはなりませんでした。
渡し場を越えて高崎市内に入り、国道17号線と高崎線を越えると、間もなく倉賀野宿の入口手前で、日光東照宮へ通じる“例幣使道”との分岐点である追分となり、そこには常夜灯と阿弥陀堂が建っています↓(※写真は日本橋方面へ向いて撮ったもの)。
この常夜灯は文化10年(1812年)、上野国那波郡五料に住む高橋光賢と云う人物が(異説には旅籠屋主人高砂屋文之助)、若い頃に放蕩の限りを尽くした罪滅ぼしのため私財を投げ打って建てたもので、不足分は寄附を募り、それらの人々の名は常夜灯に刻まれました。
寄附者総勢312名のなかには、市川團十郎(七代目)や松本幸四郎(五代目)の名も刻まれているとのことで探してみましたが、表面がかなり風化しているために見つけられませんでした。
倉賀野宿は深谷宿同様、所々に古い建物が残っていますが、旧本陣は今や跡形もなく、そこにはスーパーマーケットが建っています。
本陣の先、街道を挟んでほぼ向き合うように建っていた二軒の脇本陣のうち、東側の須賀喜脇本陣は、↓のようにかつての姿を留めています。
脇本陣跡を通った時、そこの家の庭に咲く花の手入れをしていた老齢の女性に、「ごきげんさんです」
と、品良く公家ことば式の挨拶をされたのが、印象的でした。
この堤を越えたところが、中山道二ヶ所目の渡し場、「柳瀬川の渡し」です。
川の名称は正しくは“烏川”なのですが、ここの箇所だけは何故か“柳瀬川”と呼んでいたようです。
ここは江戸中期まで渡し舟も仮橋も無かったため、旅人たちは仕方なく自力で渡っていたとか。
そこで、新町宿の小林伊左衛門と云う人が宝暦9(1759年)に幕府へ願い出て、ようやく渡し舟が認可されたと云う涙ぐましいエピソードも今は昔、現在では雑草が深く生い茂った原野地帯、かつての道筋を辿って川岸までだなんてとんでもないこと、約250メートル川上に架かる梁瀬橋から渡し場跡を見ながら(写真上)、対岸の着点まで迂回しなくてはなりませんでした。
渡し場を越えて高崎市内に入り、国道17号線と高崎線を越えると、間もなく倉賀野宿の入口手前で、日光東照宮へ通じる“例幣使道”との分岐点である追分となり、そこには常夜灯と阿弥陀堂が建っています↓(※写真は日本橋方面へ向いて撮ったもの)。
この常夜灯は文化10年(1812年)、上野国那波郡五料に住む高橋光賢と云う人物が(異説には旅籠屋主人高砂屋文之助)、若い頃に放蕩の限りを尽くした罪滅ぼしのため私財を投げ打って建てたもので、不足分は寄附を募り、それらの人々の名は常夜灯に刻まれました。
寄附者総勢312名のなかには、市川團十郎(七代目)や松本幸四郎(五代目)の名も刻まれているとのことで探してみましたが、表面がかなり風化しているために見つけられませんでした。
倉賀野宿は深谷宿同様、所々に古い建物が残っていますが、旧本陣は今や跡形もなく、そこにはスーパーマーケットが建っています。
本陣の先、街道を挟んでほぼ向き合うように建っていた二軒の脇本陣のうち、東側の須賀喜脇本陣は、↓のようにかつての姿を留めています。
脇本陣跡を通った時、そこの家の庭に咲く花の手入れをしていた老齢の女性に、「ごきげんさんです」
と、品良く公家ことば式の挨拶をされたのが、印象的でした。