阪神大震災前後の三年間働いた工業団地の鳴尾浜へ行ってみた。
甲子園に行ったついでに。
団地内の様子はあまり変わっていなかったが、経営者はある程度変わっている。
その中で、ちょっと気になる工場を訪ねた。
清原鉄工所という町工場。
親父さんがわたしとほぼ同年代だったと思う。
カントリー音楽の好きな人だった。
大変気のいい親父さんだった。
うちの工場へ来て、「これ加工しといて」と言って図面を置いて行く。その時「急がへんで。いつでもええ」と言いながら、
しかし日を置かずにやってきて、「出来てるか?」と。
「出来てない」というとまた、
「いや、急がへん。いつでもええねん」と言って帰る。
そしてまた、すぐやって来て、「出来てるか?」と。
そんな人だった。
久しぶりに会いたくて行ってみたら、会社はあった。
しかしシャッターが下りている。
一瞬、もうやめているのかと思った。
もうかれこれ20年ぶりだ。
しかし、二階の事務所には電気が点いている。
シャッターの横のドアノブを回すと扉が開いた。
中で機械にとりついている人が二人ほど見えた。
懐かしい鉄の匂い。
「親父さんは?」と聞くと
「今、出て行ってます」と。
息子さんかな?わたしが勤めていた会社(今はもうない)の名前を言うと
「ああ」と言って覚えておられた。
「ちょっとこっちへ来たので、久しぶりに親父さんの顔を見たくて」と言って帰ってきた。
元気にされてるのが分かっただけでも良かった。
20年経っても鳴尾浜の様子はあまり変わっていなかった。
因みに、わたしが勤めていた工場は、その後違う業種の工場が稼働していて、忙しそうだった。
ここへ行ってみたくなったのは、今読んでいる本の影響で。
小関智弘さんの『おんなたちの町工場』という古い本。
今日読んでいたら、キャドの話が出てきた。
わたしが20年以上前に工場に働きに行ったのは経理職でだった。
しかし社長にキャドをやれと言われて、いやいやだったが始めた。
それがそのうち面白くなった。自分に合った仕事だった。
他のどの仕事よりも楽しくなった。というより、ほかの仕事はみなイヤだった。
キャドは時間を忘れてやっていた。
これについては思い出すことがいっぱいある。
そんなことを思い出して、行ってみたくなったのである。
また行ってみよう。
甲子園に行ったついでに。
団地内の様子はあまり変わっていなかったが、経営者はある程度変わっている。
その中で、ちょっと気になる工場を訪ねた。
清原鉄工所という町工場。
親父さんがわたしとほぼ同年代だったと思う。
カントリー音楽の好きな人だった。
大変気のいい親父さんだった。
うちの工場へ来て、「これ加工しといて」と言って図面を置いて行く。その時「急がへんで。いつでもええ」と言いながら、
しかし日を置かずにやってきて、「出来てるか?」と。
「出来てない」というとまた、
「いや、急がへん。いつでもええねん」と言って帰る。
そしてまた、すぐやって来て、「出来てるか?」と。
そんな人だった。
久しぶりに会いたくて行ってみたら、会社はあった。
しかしシャッターが下りている。
一瞬、もうやめているのかと思った。
もうかれこれ20年ぶりだ。
しかし、二階の事務所には電気が点いている。
シャッターの横のドアノブを回すと扉が開いた。
中で機械にとりついている人が二人ほど見えた。
懐かしい鉄の匂い。
「親父さんは?」と聞くと
「今、出て行ってます」と。
息子さんかな?わたしが勤めていた会社(今はもうない)の名前を言うと
「ああ」と言って覚えておられた。
「ちょっとこっちへ来たので、久しぶりに親父さんの顔を見たくて」と言って帰ってきた。
元気にされてるのが分かっただけでも良かった。
20年経っても鳴尾浜の様子はあまり変わっていなかった。
因みに、わたしが勤めていた工場は、その後違う業種の工場が稼働していて、忙しそうだった。
ここへ行ってみたくなったのは、今読んでいる本の影響で。
小関智弘さんの『おんなたちの町工場』という古い本。
今日読んでいたら、キャドの話が出てきた。
わたしが20年以上前に工場に働きに行ったのは経理職でだった。
しかし社長にキャドをやれと言われて、いやいやだったが始めた。
それがそのうち面白くなった。自分に合った仕事だった。
他のどの仕事よりも楽しくなった。というより、ほかの仕事はみなイヤだった。
キャドは時間を忘れてやっていた。
これについては思い出すことがいっぱいある。
そんなことを思い出して、行ってみたくなったのである。
また行ってみよう。