芦屋の詩人山下徹さんからお贈りいただいた『芦屋芸術』17号を読ませていただきました。
スミレさんの「父に捧げる二篇」に感動させられました。
亡くなられたお父さんへの想いがしみじみと伝わってきます。わたしがそれだけの年齢になっているからかもしれませんが。
初めの詩「今はもういない父へ」より。
《「もう パパなんか大っ嫌い!」 何回 そう思ったか 私への愛なんてないんじゃないだろうか?》
と、心の通い合いがなかったことをいいながら、
《たまーに ほんとたまーに ぎゅっと 私を抱きしめてくれる…》。
そして、《抱きしめられた記憶は3つ》といって、そのそれぞれを書き記してゆく。
そのエピソードがいい。
つづけて、
《父が亡くなって二年(略)ほんとうはまだ 寂しくて 恋しくて 大嫌いって何度も思った父だけど 大好きだ》
そして、
《会いたいって思う もう一度ぎゅって抱き締められたいと思う 話したいと思う 今の私の 父に対する思いを伝えたい 会って直接伝えたい パパ だいすき》
感極まるように正直に書く。
二つ目の詩「やんちゃ坊主だったんでしょ」より。
《お誕生日 おめでとう》と始まる。
そのあと、とつとつとした言葉で、ありふれた言葉で父への想いを語る。もっと知りたかったと。今になって思うと。
《大好きな 芋焼酎でもいっしょに飲みながら 話 聞いとけばよかったよ》と。
そして最終行にも 《パパ お誕生日 おめでとう》と書く。
山下さんの解説に「スミレさんは所謂「現代詩」との接触はありません。(略)今回初めて他人の前に自分の作品を差し出したわけです。」とあります。
その通りなのでしょう。詩はほとんど地の言葉で綴られています。
だからこそ、読む者の胸に響いて来るのかもしれません。
もちろん、文章の修練はされているのでしょう。この詩は「現代詩」の顔つきをしておりませんが、思いを人に伝える力はあります。
「詩」とは、それでいいのではないでしょうか。とわたしは思います。
この詩にわたしが感動したのは、先に書いたようにわたしの年齢のこともあるかもしれません。
わたしにも娘がおりますのでね。置き換えて考えてしまいます。
スミレさんの「父に捧げる二篇」に感動させられました。
亡くなられたお父さんへの想いがしみじみと伝わってきます。わたしがそれだけの年齢になっているからかもしれませんが。
初めの詩「今はもういない父へ」より。
《「もう パパなんか大っ嫌い!」 何回 そう思ったか 私への愛なんてないんじゃないだろうか?》
と、心の通い合いがなかったことをいいながら、
《たまーに ほんとたまーに ぎゅっと 私を抱きしめてくれる…》。
そして、《抱きしめられた記憶は3つ》といって、そのそれぞれを書き記してゆく。
そのエピソードがいい。
つづけて、
《父が亡くなって二年(略)ほんとうはまだ 寂しくて 恋しくて 大嫌いって何度も思った父だけど 大好きだ》
そして、
《会いたいって思う もう一度ぎゅって抱き締められたいと思う 話したいと思う 今の私の 父に対する思いを伝えたい 会って直接伝えたい パパ だいすき》
感極まるように正直に書く。
二つ目の詩「やんちゃ坊主だったんでしょ」より。
《お誕生日 おめでとう》と始まる。
そのあと、とつとつとした言葉で、ありふれた言葉で父への想いを語る。もっと知りたかったと。今になって思うと。
《大好きな 芋焼酎でもいっしょに飲みながら 話 聞いとけばよかったよ》と。
そして最終行にも 《パパ お誕生日 おめでとう》と書く。
山下さんの解説に「スミレさんは所謂「現代詩」との接触はありません。(略)今回初めて他人の前に自分の作品を差し出したわけです。」とあります。
その通りなのでしょう。詩はほとんど地の言葉で綴られています。
だからこそ、読む者の胸に響いて来るのかもしれません。
もちろん、文章の修練はされているのでしょう。この詩は「現代詩」の顔つきをしておりませんが、思いを人に伝える力はあります。
「詩」とは、それでいいのではないでしょうか。とわたしは思います。
この詩にわたしが感動したのは、先に書いたようにわたしの年齢のこともあるかもしれません。
わたしにも娘がおりますのでね。置き換えて考えてしまいます。