今日は二つのうれしい届きものがあった。
一つは松岡さんから。
これ、手づくりなんです。
コピーしたのを糸で綴じてある。
貴重な一冊だ。
恥ずかしながら田内静三という詩人、わたし知りませんでした。
明治33年生まれ。昭和53年歿。
この詩集は昭和50年に発行された私家版ということだ。
洗練された作品が12篇。
読んでみると、半透明の心の容れものの襞をうちらがわから見ているような詩。読む者の心に密着するような詩。それでいて透明感もある。とわたしが解ったようなことを言っても作者にとっては見当違いなのかも知れない。
中に一篇、ちょっと気になるのが。
これのタイトルが。
「直指」とある。
内容から察すれば「直視」なのでは?と思う。
もしかしたら誤植?
けど「直指」という言葉もあるのだ。
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060501.html
「じきし」と読む。
この意味、難しいが、「直視」に通ずるものがある。
禅語である。けど、添えられていた田内さんの年譜に禅に関するものはない。とは言っても、東北帝国大学卒で後文部省に勤務するなど教養人である。知っていて使われたのだろう。
この詩集、また改めて読み直さなければならない。その時、また印象は変わるかもしれない。そんな悩ましい詩集だ。
・
あと一点の届きものはまた改めて。
今朝のことだ。
新聞を取り入れて来て、ホッチキスでとめる。
いつものことだ。
途中で、針が無くなった。
で、小物入れに入っているのを取りに。
ところがない。あれ?おかしい。ここに入れてるはず。
けどない、とあわてていた。
ところがだ。
わたしが小物入れの引き出しを開けて探していたのは、ホッチキスだったのだ。
針を取りに来て、ホッチキスを探していたのだ。そんなバカな!
これはちょっとしたボケではない。本格的なボケだ。
そんな話を店でしていたら、「あるある、わたしもよくある。探し物をしていて、何か分からなくなって、また元の所に戻って考えたり…」などと慰めて下さる人もある。
で、杉山先生の詩を思い出した。
・
生
ものをとりに部屋へ入って
何をとりにきたか忘れて
もどることがある
もどる途中でハタと
思い出すことがあるが
そのときはすばらしい
身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか
いつか思い当たるときのある人は
幸せである
思い出せぬまま
僕はすごすごあの世へもどる
いいですねえ。
9勝6敗のまずまずの好成績です。
今場所の取り口を見ていると確実に地力が着いてきてました。
次場所はさらに上位力士と対戦するでしょう。
で、相手をもっと研究しなくてなならないでしょうね。
実は彼、取り組み相手を当日の朝に確認するということです。意識して前日には見ないようにしているのです。ぐっすり寝て、朝起きてから知るということでしょう。が、今後はそれではちょっと…という気がします。やはり相手を知って、ビデオを見るなりして研究して臨むべきでしょう。それで負ければ、それは実力の問題。
ということで、来年はさらに上位を目指し早く三役に入ってほしいです。
23日だから一昨日だ。
わたしは宝塚へブルーグラスのコンサートに。
そしてカアチャンは出石高校の同窓会で豊岡へ。
で、その夜はわたし一人。
こんなことは一年に一度もない。
「淋しくない?」とか聞かれるけど、一泊だけだから大丈夫。
これが何日もになると、淋しいというよりも不便だ。
わたしはなにも出来ない。
いつもなら、寝る時は布団もきちんと敷いてある。
朝起きたら、その日着るものはみんな揃えて置いてある。
食べるものもみな用意してもらえる。
わたしは洗濯も出来ない。
自慢じゃないがわたしは家事は何もできないのだ。
でも最近は、何でも売っているし、一日や二日ならなんとか生きていける。
カアチャンは車で行っていた。
ので昨日、帰りには田舎からお野菜をいっぱいもらって帰って来た。
車にいっぱい、大根など。
まるで八百屋の仕入れのように。
今日はそれをいつもお土産を下さる人に配り歩くのに大忙しだった。
うちのカアチャンはエライぞ。
すこし前にここに紹介したと思うのですが、「すくなかぼちゃ」のこと。
実は、どうやら違っていたようです。
このカボチャが西宮に来たのは、家内の義姉さんの豊岡から。
そこから色んな所に貰われていったのですが、その過程で「すくなかぼちゃ」という名前になっていました。でも先日うちに見えたお義姉さんによれば「違うで。よう似とるけど、すくなかぼちゃじゃぁにゃぁで」と。しかし本当の名前はご存知ではなかった。ただ「すくなかぼちゃ」ではないと。
それで、そのいきさつを森文子さんのブログにコメントしたら彼女、調べて下さいました。
で、どうやら「南部一郎」という名のかぼちゃなのだと。
このブロを見ると ↓ そうですね。
http://blog-s-farm.hideyoshi-inc.com/article/48208133.html
ということで訂正します。あの面白い形をしたかぼちゃは「南部一郎」でした。
子ども時代の想い出の第5回目。
想い出はどうしても隣のお地蔵さんがらみになる。
古いものを触っていたらこんなのが出て来た。 きれいな字が書いてありますねえ。どなたの字だろう。この近所で達筆といえば多分、瀬川典さんかな?もう亡くなられて久しい。
戦災に遭って焼失したお堂の再建のための記録である。
昭和25年というから62年前だ。
世話人の名が並んでいる。懐かしい名前だ。もちろん全て亡くなっておられる。
今村武夫はわたしの父である。
しかし、字が間違っている。武男が正しい。ということでこの字は父の字でないことはたしか。
父もいい字を書いたが少々癖が強かった。この記録簿の中にも見える。
で、こうして集めた浄財が、計30151円也とある。
いくら物価の安い頃だとしてもこれで立派なお堂が建つわけがない。
取りあえずの仮普請である。屋根はトタン葺き。
当時の写真はないが、昭和62年、取り壊す直前のものがある。わたしが撮った写真だ。
取り壊すための足場が組まれている。右端に写っているご婦人は今は亡き田淵さん。
この人には多くの想い出が有る。またいつか書いておかなくてはならない。
どうですか、貧相なお堂でしょう。
ここで、どれほど遊んだか!雨ふりの時の子どもの恰好の遊び場でもあった。
ベッタン、ビー玉などして夢中で遊んだものだ。
ちょっと見えるかな?お堂の両脇に斜めに補強の柱があるのが。
これに関する記述が、この記録簿にある。
建ちあがったあとのことだ。
「ジェーン台風修理代」として270円。その材料木材費として980円。
ジェーン台風は死者不明者500名以上を出した台風。昭和25年9月3日に阪神間を襲った強力台風だった。
8月24日の地蔵盆に間に合わせて、せっかく建てたお堂が歪んでしまったのだった。
それで修理して、さらに補強したのが写真に見える斜めの柱だった。
この台風は子ども心に恐かった。私どもは学校に避難した。近所の子どもたちも一緒に同じ教室に。あたり一帯は高潮で浸水。瓦も吹き飛んで壊れて道に散乱していた。
あ、そうだ。寄付金だが、大体、一軒あたり100円ぐらいだが、下は20円からある。
そして最高額が「山一商会」櫻田喜一さんの3000円。酒の樽か箱を製作しておられたと思うのだが…。このお地蔵さんに縁が深かったのだろう。そして「日本盛」が2500円とお酒6本だ。
ずうーっと名前を見ていると、うちの父親の関連の人の名前が多い。昭和25年はまだ若いころだ。でも頑張ったのだ。
そうして建ったお堂だが、このお地蔵さん、仮住まいのまま昭和62年まで過ごされることになる。
この帳簿の中に面白い物が挟まっていた。「帝国在郷軍人會」
バックの絵が戦闘機、鉄兜、銃、戦艦、そして西宮市章。
昭和25年にまだこんな物が残ってたんですねえ。
つづく
鹿島さんの自叙伝、7回目です。
今回は重要なことが書かれています。
灰谷健次郎さんとの出会い。
これが鹿島さんのその後の人生を決めます。
”私は灰谷さんの才能を尊敬し、親交は生涯続いた。“とある。
灰谷さんは、足立巻一先生を実の父のように慕う人でした。
足立先生が亡くなられた後の、足立先生を偲ぶ会に出席された灰谷さんの言葉が印象的だった。
「わたしは父親だと思っています。亡くなったとは信じておりません。今も、足立さんに何かを送る時には、宛名を奥様にではなく足立巻一先生宛にしてます。これからもずっとそうします。奥様ゴメンナサイ」
足立巻一先生と言われたか、足立さんと言われたかは忘れたが、そのような意味のことを言われたのを覚えている。
ということで、鹿島さんが生涯薫陶を受けた灰谷さんは足立先生に多大な薫陶を受けておられたというわけだ。
足立先生と灰谷さんの関係は、児童詩誌「きりん」による。
わたし、そのバックナンバーを6冊保有しているが、その内の一冊。昭和38年発行。
子どもの詩がたくさん載っているのだが、
ここにも足立先生の「牛乳家族」と灰谷さんの「詩のコクバン・マコチンチンものがたり」という文章が載っている。
何れも心温まる文章だ。
公民館といっても立派なホールで、ステージ、音響、照明も本格的でした。
定員は150人でしたが、両脇に急遽補助席も設けて超満員でした。
ゲストに諸口あきら、赤城一孝を迎えての充実したコンサート。
諸口さんは、さすがに少々老けておられましたが、渋い歌声は魅力的でした。
「45」のリードボーカル、ジョッシュ大塚さんの生の演奏を聴くのは何年ぶりでしょうか?多分35年ぶりぐらい。神戸の名物ライブハウス「ロストシティー」で聴いて以来。御歳は68歳。しかし元気いっぱいだ。懐かしい!
会場は録音撮影禁止でした。が…
http://www.youtube.com/watch?v=WVm6Ig3B3FE&feature=plcp
いや楽しかった。アンコールもたっぷり、2時間半、ブルーグラスの世界に浸かってきました。
もう2年以上になる。この人と繋がったのは。
森文子さんという。通称「ぶんぶんさん」
わたしが何かを検索していて、偶然この人のブログを覗いたのだった。
なにかフィーリングが合って、その後お付き合い願っている。
この人のブログを見ると、いつも心の琴線(お前の心に琴線などあるのか?の声あり)に触れる思いがする。
http://shingetsu-usagi.com/blog/
宮城県角田市にお住まいの、女道化師が彼女のお仕事。
昨年の、3・11のあと、しばらく消息がつかめず心配したが、無事だった。
その人に、この前の面白いカボチャを陣中見舞いとしてお送りした。すると、こんなものをお返しに送ってきて下さった。
わたしの孫への絵本など。
そして、これは来年のカレンダー。
http://www.egao-project.com/
これは被災地の復興を願って発行されているもの。
このカレンダーのこの部分、
この方言が面白いのだが、これのアドバイスをぶんぶんさんが携わっておられるのだと。
ブログでも東北なまりがバンバン出て来てわたしはいつも楽しませてもらっている。
さて、そのぶんぶんさん、こと森文子さん、この度「週刊朝日」に登場。 この表紙の人ではありません。
こちらのページ。
マルチ人間のドリアン助川さんの連載記事「ドリアン助川が折りたたみ自転車で走った おくのほそ道 2012 「災後」の東北を訪ねて」の記事中に彼女が登場してます。
偶然知り合った彼女ですが、なんとも魅力的な人物です。
ありがとう、ぶんぶんさん。
あっ、お送り頂いたのは、地元の切手のシートなどほかにもありました。
人(清水さん)が畑で作ってわたしに頂いたカボチャをお送りしただけなのに、色々とお気づかい頂きましてありがとうございました。
前回に「東町配給所」の西隣にあった畑の見える写真を載せた。
トウモロコシ(サトウキビだったかも?)が見える。
ある日、この畑を鍬で耕していた父は焼き物を掘り当てる。
エビス像だった。そして、また日を経て今度は大黒像を。
一対が揃ったわけだ。
しかし、像には火傷の痕が。
そう、ここには戦前民家があり、戦災で焼け崩れたのだった。
配給所とこの畑を合わせた土地が、今のわたしの家と店だが、戦前は二軒の民家が建っていたのだと。うち一軒は、先の空気銃の田淵さん宅。田淵さんはなぜか戦後、この場所から北方へ4軒目に変わっておられた。
で、この一対の像だが、そのどちらかのお宅に祀られていたものだったはずである。
しかし不思議なのだ。家が焼け崩れてしまったのに、この2体の像は、火傷は負っておられるが、ほとんど無傷だった。
以後、父はこの像を神棚に祀って大切にしていた。
引き継いだわたしも、我が家の守護神として大切にお祀りしている。
元々は彩色されてたのだろうが、戦火で素焼のようになっておられる。
左、大黒様、右、恵比寿様。