生かされているとは良く言われる言葉ですが、何となくその意味は分かるのですが、それを実感することは余程の人でないと無いのじゃないでしょうか。
凡人の身としては、実際に心からそう思ったことはあったのかなかったのかも分かりません。多分思い浮かばないということはなかったのでしょう。
もしかしたら日本に生まれたこと自体が生かされていることなのかも。
哲学や禅など勉強したこともないので人生の奥深さに悩むこともない平凡な人生こそが生かされているということなのでしょうか。
そんな奥深いことをねずさんが書いてくれています。ここまで来ると、もう理解の外かも。
ねずさんの学ぼう 日本より 2021/07/09
直指人心、見 性成仏
・・・略
人とは何か、生老病死とは何かなど、禅の奥底を極めようとしていた白隠は、学んだ知識を頭の中で整理して、たくさんの引き出しの中から、常に相手をやりこ めるだけの知識を得ていたわけです。
だから、老師のもとを訪れるまで、常に論争に勝ち続けました。
その得意の絶頂で訪問した老師は、そんな白隠に、「お前の学問など、ただの上っ面で、お前自身には何の真実もないではないか」 と、若い彼の鼻っ柱をへし折ったわけです。
ところが、この男見込みあり!と思った老師は、白隠を寺に置き、白隠を無視し、怒鳴り、白隠の精神を厳しく追い込んでいきまし た。
すでに学はなっているのですから、講義になんて呼ぶ必要はない。
それよりも、鼻高になっている白隠を、精神的に追い込んで行ったのです。
いまなら「精神的迫害を受けた。賠償するニダ」などと言い出す人がでかねないような話ですが、見込みがあればこそ、必ずそこから 立ち上がれる男と見ぬいたからこそ、老師は白隠に厳しくしたのです。
その結果、ボーッとなってしまった白隠は、老婆の怒りによって、
「自分が自分だけで生きているのではなく、
常に周囲との関係の中で生かされているのだ」
と気付くわけです。
それを、白隠の表情ひとつで見ぬいた老師は、
「汝、徹せり!」
と、白隠の気付きに見事なタイミングで烙印を入れてくださったわけです。
人は生まれたときに、何も持たない丸裸で生まれてきたのではない。
実は今生で必要なものを、全部持って生まれてきたのだそうです。
しかも実は生きているのではない。生かされている。
そして生きとし生けるすべてのものは、そのすべてが実は、奥底でつながっている。
白隠は頭が良くてできの良い学僧でしたが、自分一人が突出して成った気になっていたのです。
何もかもがつながっている。
自分ひとりだけではない。
そのことの持つ意味の深さに、彼はそこではじめて、本当の気付きを得たのです。
「ウヨクもサヨクもない。
たいせつなことはナカヨク」です。
日本を取り戻す。
その動きは、見性成仏を得て、いま、しっかりと新たな炎をあげつつあります。
日本は本当に再生されるのでしょうか。疑い深いのでまだまだ実感できませんが、そう信じるしかないのかも。
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