昨日は、我が町内のお火焚き祭(おひたきさい)であった。昼前に市比売神社から神主さんにきていただき、大祓詞(おほはらえのことば)をあげてもらいながら、護摩木に火をともし、お祓いをしていただいた。
大祓詞というのは、第一段が高天原の理想の国の姿をこの日本の国土に建設するために神々が御皇孫ににぎの命にご命令なさる。第二段は国土の状況を、そして第三段は天降られた命が御殿をつくられ建設に第一歩を踏み出された事を書いている。そして第四段では人々が知らず知らずに犯した心のけがれをとむらう儀式が述べられ、第五段ではその儀式をすると、天神国神はそれをお聞きになり、第六段ではその罪状がむくわれてゆく様子を述べている。
国づくりを主眼としているのは、デザインという私の立場からみれば心強い限り。さて護摩木が燃え上がる頃、護摩木を焚いた鍋に蜜柑がくべられ、焼き蜜柑が各家庭に配られる。そこまでが、本来のお火焚祭の行事である。京都市内の多くの町で今でも行われている、冬の始まりをつげる行事である。
さてそのわが町の神様の神棚に備えられた御神酒や鯛や野菜や昆布やスルメや干しアワビなどがもったたいないというので、今年はお火焚祭の残り火を使い町内会主催のバーベキュー大会となった。
でっ、昼から町内の路地で宴会である。祭壇のお供え物を下げて、焼き、みんなでたいらげてしまったわけだ。それでも足りないと買い出しに走り、各家庭からもちより、すべてバーベキューである。そんなことをしながら、食べて飲んでと宴会をしていたら、夕方になってしまった。結局半日お火焚祭であった。
いささか、食べ過ぎ飲み過ぎなので、一昨年に撮影した画像をアップさせた。
2008年11月15日、お火焚祭
RICHO R8,1/143,f5.2,35.4mm,ISO200
GF-1を購入するときに、オプションにあったデジタル液晶ファインダーを追加した。もちろん光学ファインダーと同じような撮影スタイルを維持したいからである。
液晶ファィンダーはデジタルだから、光学ファィダーのようにリアルタイムで画像をみられない。デジタルでは、情報を再生してから見ているので、僅かに遅れた画像をみている。極端なことを言えば、被写体が上げている手を左から右に変えても、液晶ファインダーでは、まだ左手を上げている姿が見えていたといった具合だ。もちろん現在のデジタル機材では、そうしたタイムラグは、わからないぐらいに大変少なくなっているが、それでもリアルタイムで見ていないということは事実である。
本来ファインダーは、見ている範囲を示す見当器だとおもっているので、私はタイムラグをあまり気にしていない。それよりも、マニュアルレンズを使用した際に、ピントが合わせられる機能の方が大変重宝する。GF-1では、デジタルファインダーの拡大表示機能があるので、マニュアルレンズでも、比較的正確にピントが合わせられる。だから、古ライカMレンズシステムが使えるわけである。ただ欲を言えば、フォーカスモードボタンとSETボタンが触るだけで認識できる形状にして欲しかったですね。ファインダーを覗きながら手探りでボタンを探すのは、ちとつらい。
またGF-1に付属するLVFは、回転が甘く視度調整ダイヤルが不用意に動くことがあり、時折ピントが合わなくて慌てさせてくれる。さらにGF-1のボディ側のボタン類も不用に押されて設定が変わっていることに気づかない場合がよくあった。
私は、ファインダーというのは、人間のクリエイティブな感性や意識が働いているのであるから、省いたり、デジタル液晶ディスプレイで代用するなど、粗末な仕様にしてほしくないと思う。
京都御所,皇后宮常御殿,玄輝門,朔平門
GF-1,TELE-ELMARIT f2.8/90mm,jpg,
シャッター:1/125,絞りf4.0,+1/3補正,ISO100,撮影モード:スムーズ