Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし144. 凄腕のプロ技・続

2009年11月15日 | Kyoto city

 撮影機材を一切持たずに、パソコン一式を詰め込んだラックを持ってくるフォトグラファーも、今の時代はいるだろう。
 例えば、あなたが写真道楽家で、ある時会社の上司から、新商品の撮影をして欲しい、と依頼されたとしよう。道楽が仕事になるなんて素晴らしい。会社の眼があなたに向かうというのも気持ちがいいもんだ。そこであなたは機材庫をひっくり返し、自慢のニコンD3や24-70mmのズームレンズやら、マクロレンズ等を会社に持参するだろう。そして意気揚々と、蓄えこんだ知識を振りかざしながら、得意満面にフォクグラファーと会話をしつつ、もの撮りに励むことになる。
 そしてあなたが撮影したローデータを受け取ったフォトグラファーは、adobe photoshopの機能をフル稼働させて、何枚ものレイヤーの上に、あなたが撮影した画像を展開させ、そしてバラバラにされ、さらにレタッチの限りをつくして、最後に印刷用の写真原稿にしたてあげてくれるというわけだ。つまりこのフォトグラファーは、後処理の達人だったのだ。
 だから撮影などは誰が撮ってもよく、最悪写真の素人お姉ちゃんがEOS Kiss digitalで危なさそうに撮影した画像だって構わないのである。後処理で技を少し駆使すれば、印刷原稿にできるという考え方なのだ。これもデジタル時代のプロ技であろう。
 こうした手法をみたければ、コマーシャルフォトなどの商業写真誌を見るとよくわかる。
 例えば、エンジンやインテリアなどの大半の装備を外された自動車は、背後からクレーンであたかも宙に浮いているようにセッティングされて撮影される。撮影画像は、ソフト上でバラバラにされ、調整とあらゆるレタッチが細部にわたってほどこされ、実写ではとても撮影不可能な印刷画像に仕上げてくれる。そして私達の眼前に雑誌のグラビアとなって登場してくるのである。
 このように考えると、撮影というのは、前回のブログのようにプロ技を駆使した仕事の終わりであり、また始まりでなのである。
 従ってシャッターを押すという行為自体は、今ではあまり重要な仕事ではなく、むしろ撮影のための筋道が組み立てられる企画力、計画的に実行できる行動力、そしてソフトウェアを使いこなせる技の方が重要になってくる。さらには、そうした行為全体をディレクションできる能力が必要なのである。そこらあたりに、プロ技が光るのであろう。

京都御所,承明門
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/f3.5-5.6ED,
シャッター:1/200,絞りf6.3,焦点距離16mm,ISO100,カラーモードF2

コメント
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