今年は、第26代継体天皇が京田辺に都を移してから、1500年。(遷都1500年)
その宮跡地には、約7か所の候補地がある。
市教育委員会や遺跡発掘関係者は、たった一つ有益とみなされる物的証拠がある、「薪の堂の後」を有力視している。
しかし、7つの地域をみてまわったが、どう見ても、我が多々羅~観音寺の丘陵地が本命と思って止まない。
理由は、①丘陵地で全体を見渡せる
②以前は、船着き場や普賢寺川には水量が多く水上交通が発達していた
③古文書や古図にも都の位置の記述がある(平安通史、山城名勝志、大日本地名辞書 等)
④都谷、一の門、御所の内、王字谷等の地名が残る
堂の後派に対して、このことを言ってきたが、うなずく方は少なかった。
釈然としない気持ちが半年、次の新たな事が発見されたとのことで、この件について、また話題が高まっているようだ。
福井県の石橋重吉さんが自費出版した『継体天皇と越前』の中で、天保2年(1831)に筒城宮跡を訪ねた記録があり、「綴喜の岡は木津川から見て西、200軒ほどの村がある。この村の北に広さ三町(330m)四方、高さが3丈程(9m)の平らな山。これが継体天皇の宮跡とのこと。毎年神事が行われており」とある。
このことは、多々羅~観音寺がかなりあてはまるのではないかと、楽しみになってきている。
その宮跡地には、約7か所の候補地がある。
市教育委員会や遺跡発掘関係者は、たった一つ有益とみなされる物的証拠がある、「薪の堂の後」を有力視している。
しかし、7つの地域をみてまわったが、どう見ても、我が多々羅~観音寺の丘陵地が本命と思って止まない。
理由は、①丘陵地で全体を見渡せる
②以前は、船着き場や普賢寺川には水量が多く水上交通が発達していた
③古文書や古図にも都の位置の記述がある(平安通史、山城名勝志、大日本地名辞書 等)
④都谷、一の門、御所の内、王字谷等の地名が残る
堂の後派に対して、このことを言ってきたが、うなずく方は少なかった。
釈然としない気持ちが半年、次の新たな事が発見されたとのことで、この件について、また話題が高まっているようだ。
福井県の石橋重吉さんが自費出版した『継体天皇と越前』の中で、天保2年(1831)に筒城宮跡を訪ねた記録があり、「綴喜の岡は木津川から見て西、200軒ほどの村がある。この村の北に広さ三町(330m)四方、高さが3丈程(9m)の平らな山。これが継体天皇の宮跡とのこと。毎年神事が行われており」とある。
このことは、多々羅~観音寺がかなりあてはまるのではないかと、楽しみになってきている。