世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
立場
人の多くは立場で動いているように見える。
国会論戦を思い浮かべても、もともと立場によって座席は指定され、まず始めに立場を枕にしてから話し始める。(飛躍するが)地球の温暖化、子どものいじめや自殺、これを前に
「春になったら桜が咲き、植物は太陽と水が必要。」と同様、当たり前のことの前に(立場)は無く(立場)でものを言ってどうにかなるものではない。立場を死守し、一方、敵?を責めているように見える。政府や文科省が責任逃れをしたり、それを責めたからといって、政治のの責任から逃れられるわけではない野党。
自殺した学校の校長や教育委員会の謝罪振りは、立場を守るための姿にしか見えない。子どもが自ら命を絶っているのに、立場にしがみつく大人の姿。
若い頃、職員会議で議論すると殆どの先生(今振り返ると、自分も似たり寄ったりだと思うが。)が立場でものを言う。立場でものを言うから、話し合ってもかみ合わない。「立場」は自分を守る予防線で、人の業のように思ったことがある。立場に拘っては、話し合いの意味は無いと思う。
私の住んでいる近くに、大きな川があり、昔は川を挟んで、お互いに仲が悪かったそうだ。片方の水田中心の村の子どもは対岸の村の子を「川向こう」と言ってバカにしたらしい。対岸の村は山に近く畑作中心で比較的貧しかったと言う。
こんな話は日本中どこにもあるだろう。多分世界中がそうかもしれない。そして今も変わらない
そうやって争っていられる時代は田園的で、後から思い出しても懐かしくいいかもしれない。しかし今日の地球の温暖化や、いじめ自殺等の次々発生する焦眉な現象はそういうレベルではない。後になっても思い出したくもないことばかり。
(また話は飛ぶが)勝ち組とか負け組み(格差)も同じで、争っていられる状況を既に超え、「共食い」「共倒れ」の域に来ているのではないだろうか。勝ち組に見える者の悲惨な姿はテレビで見なくてもあちこち身近に転がり、探すのに困らない。立場に拘っていられる時代ではない.。
立場を強調するのは差異を以って、身を守ったり相手を責めるときの道具ではないだろうか。だから、立場や差異の中身はさほど問題にはしない。
こんな事を書いてると、テレビで東京都議会の各党の代表が「この1年を振り返って」を語っていた。
すると上で書いているイメージよりはるかに各党が党利党略的で殆ど立場でものを言ってる。各党とも(臍・中心の中身)の無い話ばかりだった。石原知事はオシャレに気を使うが、もう既に今の時代は把握できていない。いい悪いは別にして、その古さを感じている政党は無く、(敵か味方)だけだった。
例えば、知事や各政党の議員はオリンピックの発想が基本的に45年前と同じ。
世界も日本も東京の経済も人心も変わっている現実を認識していない。イコールではないが、長野冬季オリンピックの思惑外れを少しも学習していない。
強調したいのは、リーダーの石原知事も、知事を支持する自民党や、庶民の味方を標榜する公明党も批判する民主党や弱者の味方を標榜する共産党も基本的な認識は同じ。
各党は哲学を欠き、具体的な現実を知らない。浮遊の仕方の違いが目立つだけで、浮遊していることに違いは無かった。
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