世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
法律と法
一応ここでは、法律は、人為の法、自然の法則のように人為以前普遍的な価値やルールを法とする。
独裁と言われるヒットラーや金正日にしろ、法律によって政治を行っている。法律を(正義)とするなら、正義の名によって、虐殺が行われたことになる。虐殺は法律的には正義であっても法の前には許されない。
キリスト教会で祈るとき、最後に「キリストの御名によって ~アーメン」となる。円滑に事を進めようとする時、権威や正義を冠にして行うことがしばしばある。
大切なのは冠の中身なのだが、多くは冠の前にひれ伏しがちである。
それは法治国家だから手続き上も問題はないが、先に出した例のように、法律が法を破ることは少なくない。法律を道具にして法を破る。民主主義や選挙もときに道具になり、民主主義の名によって民主主義を破壊し平和の大義名分で戦争をする。このような取り違いは、身近な世相でも、歴史を見ても、珍しいことではなくむしろ一般的。
この関係はややこしいが判断・判定の基準は割合はっきりしている。それは「法」。
法律と法の関係を、取り違わないようにしないととんでもないことになる。神も仏も崇高な価値だが、時にそれが対立や憎しみ、殺し合いの道具にもなりかねない。何事もその基盤である、自然探し、法探しが大切だと思う。うっかりすると、言葉探しに陥る 。こういう自分もしょっちゅうその渦に巻き込まれる 。
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真空地帯
50年以上も前、野間宏の原作で映画化された「真空地帯」があった。子どもだった自分はその映画を見た記憶は無い。反戦映画であることは知っていたが何故「真空地帯」というのかわからないできた。
昨日、硫黄島の戦いを描いた、「父達の星条旗」と「硫黄島からの手紙」の映画ををはしごをかけて見た。見ていると「真空地帯」の意味が分るような気がした。戦争のなかで人がまともに生きられる空気がなくなり、異常な神経と行動が出てくる。米軍は敵味方を見間違い、味方を撃ち殺す。日本軍も隊内の仲間を信じられなくなり、なぶり殺す。
まさに共食い共倒れが始まる。
そんなことを考えながら見ていると、不安の時代とか閉塞状態と言われる今日の日本の状況が脳裏に浮かんできた。現在の日本は戦争はしていない。真空地帯とはいえないだろうが、空気が薄くなり息苦しくなっている感じがする。
そういう中で、親殺し子殺し、虐待、自殺、異常犯罪、いじめ自殺などの行動を始め、虚言・偽言は周囲の至る所で見られる。
真空地帯と現在の空気は地続きに感じる。そしてさらにその空気は希薄になりそう。掛け声とは反対に、物事が進んでいる。各分野で言葉と実態の乖離が進む。大きく離れたのをウソとか偽装と言う。
言葉に気をとられ、事実や実態から目を離してはいけない。手品の仕掛けを見破る時のような目で、見抜こう。その力がかつてなく求められている。
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